「亀山天皇」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
83行目:
正嘉2年([[1258年]])8月、惨烈を極めた正嘉の飢饉の最中、10歳で立太子、翌正元元年兄の[[後深草天皇]]の譲りを受けて[[践祚]]。即位には父の[[後嵯峨天皇|後嵯峨上皇]]や、生母の大宮院の意向があったとされる。
 
弘長3年([[1263年]])、[[鎌倉騒動]]で、第6代[[征夷大将軍|将軍]]の[[宗尊親王]]が鎌倉から送り返され、代わって[[惟康親王]]の下向を要請した。文永2年([[1265年]])には、[[元 (王朝)|元]]の[[クビライ]]からの国書が[[高麗]]を介して伝えられ、鎌倉から送達される。幕府は元に備えると共に、朝廷は神社に異国降伏の祈願を行う。院政中には2回の元の対日侵攻([[元寇]])が起こり、自ら[[伊勢神宮]]で祈願するなど積極的な活動を行った(当時の治天・亀山上皇と天子・後宇多天皇の父子いずれかが「身を以って国難に代える祈願」を伊勢大神宮に奉ったことは史実のようだが、父子のどちらにその祈願を帰すべきかは、大正年間に学者の間で大論争を呼んでいまだ決着のつかない問題である)。元寇の際に亀山上皇が[[筥崎宮]]に祈願し、神門に「敵国降伏」の扁額が掲げられた
 
文永4年(1267年)には皇后が世仁親王([[後宇多天皇]])を生み、翌五年後嵯峨院の意向をもとにこれを立太子。文永9年(1272年)2月に後嵯峨法皇が崩御し、[[治天の君]]の継承と、[[皇室荘園]]領の問題が起こる。後嵯峨法皇は治天下の指名を幕府に求める遺勅を残していたとされ、幕府は後嵯峨法皇の内意を問い、大宮院の内意が亀山天皇であったとする証言から亀山親政と定まる。文永11年([[1274年]])正月、亀山天皇は皇太子世仁に譲位して[[院政]]を開始。亀山は[[院評定制]]の改革に取り組み、一定の成果を上げて「厳密之沙汰」、「[[徳政]]興行」と評された。