「アルハンブラ宮殿」の版間の差分

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イスラム教徒がイベリア半島に進出する前[[8世紀]]初頭まで、この地は西ゴート王国の支配下にあった。[[711年]]、ウマイヤ朝の北アフリカ総督である[[ムーサー・イブン・ヌサイル]]が武将ターリクに命じ、[[トレド]]までを占領。その後数年で、イベリア半島全域がイスラーム圏となった。この地に、最初に栄えたのが後ウマイヤ朝であるが、このときの都はまだ[[コルドバ]]であり、グラナダの丘の上には軍事要塞アルカサーバだけが建てられていた。現在、アルハンブラの最も西の部分である。
 
[[11世紀]]前半から、[[キリスト教徒]]の国土回復運動である[[レコンキスタ]]が本格化し、[[1085年]]にはトレド、[[1236年]]にはコルドバ、[[1246年]]には[[セビーリャ]]を陥れた。イスラム圏に残されたのは、グラナダを中心とする[[アンダルシア州|アンダルシア]]南部地方のみとなった。一方、アルハンブラ宮殿が大きく拡張されたのは、この時期に建国したイベリア半島最後のイスラム王国であり、グラナダを首都とした[[ナスル朝]]([[1238年]] - [[1492年]])の時代に入ってからである。[[メディナ]]出身[[デアル・アフマド家]]の血を引く[[ムハンマド1世]]、および、その子[[ムハンマド2世]]が60年も歳月をかけ、[[水道]]を設置し、アルカサーバの拡張工事を行い、宮殿(14世紀に取り壊され、現在は残っていない)を造った。その後も歳月と共に建物や塔が建築されていったが、大きな変貌を遂げるのは、ナスル朝の黄金時代を築いた[[ユースフ1世 (ナスル朝)|ユースフ1世]]とその息子の[[ムハンマド5世 (ナスル朝)|ムハンマド5世]]の時代である。ユースフ一世時代には、城廊では、マチューカの塔、コマーレスの塔、正義の門、スィエテ・スエーロスの門、宮殿ではコマレス宮を中心とする建物が造られた。ムハンマド5世の時代には、城廊では、ぶどう酒の門(城廊のなかでは唯一[[アラベスク]]模様の装飾がある)、宮殿ではライオンの中庭を中心とする建物が造られた。ライオンの中庭は、長さ28メートル、幅16メートルで、庭を囲む4つの建物には124本の[[大理石]][[円柱]]が立ち並んでいる。中庭の東側にある諸王の間には、10人のアラブ人貴族を描いた絵画がある。これは、初代のムハンマド1世から十代の[[アブー・サイード]]までのナスル朝スルタンであるという説と、重臣が法廷を開いている場面であるという説があり、後者の説に基づき、「裁きの広間」とも呼ばれている。
 
ムハンマド5世没後、ナスル朝はおよそ100年間存続するが、新たな建造物はほとんど建てられなかった。