「テオドシウス1世」の版間の差分

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テオドシウスは379年の冬に大病を患っていたときに三位一体派の[[テサロニケ]]主教(司教)アコリウスから洗礼を受けたため、ニカイア信条に忠実であった[[380年]]11月24日、テオドシウスは三位一体派ではなかったコンスタンティノポリス大主教デモフィリスを追放し、後任に三位一体派の[[ナジアンゾスのグレゴリオス|ナジアンゾスのグレゴリオス]]をつけた。
 
これに先立つ380年2月には、テオドシウスとグラティアヌス、ウァレンティアヌスの3人の東西[[ローマ皇帝]]は、「[[ペトロ|使徒ペトロ]]がローマ人にもたらし、[[ローマ教皇]][[ダマスス1世]]と[[アレクサンドリア総主教庁|アレクサンドリア総主教]][[ペトロス2世]]が支持する三位一体性を信仰すべきであり、三位一体性を信仰しない者は、異端と認定し罰する。」という勅令を発した([[テッサロニキ勅令]]」を発した。当時のローマ教皇とアレクサンドリア総主教は三位一体派であったため、この勅令が三位一体派の保護と[[非三位一体]]派の排斥が目的であることがよくわかる。事実、アリウス派だけではなく、[[マケドニア]]人の小さな教派も弾圧されていた。
 
[[Image:Solidus Valentinian II trier RIC 090a.jpg|right|thumb|300px|ウァレンティニアヌス2世の下で鋳造された硬貨の裏に刻印されたウァレンティニアヌス2世とテオドシウスの後ろに、キリスト教の聖人を表す光輪がある]]
 
380年2月に出されたこのテッサロニキ勅令[[ミラノ勅令]]以下コンスタンティヌス大帝の下に定められたキリスト教会の準公的な位置づけを無視する部分もあった。その最たるものは、異教の寺院であっても、公共建築として活用できるのであるならば、保護する事を命じた部分であった。だが、のちに「テオドシウス勅令」と呼ばれることになる一連の勅令では、次第に異教に対する風当たりを強くする内容が多々あった。
 
[[379年]]テオドシウスは、キリスト教以外の宗教の祭日がキリスト教における平日に行なわれていると罵倒し始めた。[[381年]]になると、テオドシウスは非キリスト教の神に捧げる犠牲を禁じ、「誰も、聖域に行くことはなく、寺院を歩いて通り抜け、人の労働で作成された像を見てはならない」と定めた。