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[[Image:A statue of Zhao Pu.jpg|thumb|中国[[河北省]][[正定県]]南城門内の趙普像]]
'''趙 普'''(ちょう ふ、[[922年]] - [[992年]])は、[[中国]][[北宋]]の[[政治家]]。[[字]]は則平。[[諡]]は忠献。北宋初期の[[宰相]]で北宋建国の元勲。しばしば「学究」とあだ名された。
幽州薊([[天津市]])の人。元は[[後周]]の下級役人に過ぎなかったが、当時[[節度使]]であった北宋の太祖・[[趙匡胤]]の知遇を得て掌書記(書記官を掌握する職務)に迎えられ、ブレーンとなった。[[959年]]に[[柴栄|世宗]]が急逝し、その後継者となった[[柴宗訓|恭帝]]が幼少であったために軍部が動揺すると、[[太宗 (宋)|趙匡義]]とともに[[陳橋の変]]を主導し、趙匡胤を擁立して北宋を建国した。
太祖からは左右の手と評されるほどの信頼と重用を受け、枢密使を経て[[964年]]には宰相となった。一時は[[翰林学士]]・盧多遜の讒言を受けて失脚したが、再び宰相へ復帰し、992年に致仕するまで在職した。
下級役人上がりで教養がないと批判されたが、「沈毅果断、天下を以って己が任と為す」といわれた冷静沈着な名宰相で、[[唐#盛唐(8世紀初頭~)|盛唐]]から[[五代十国]]時代にかけて戦乱の原因となった節度使の無力化や、文人の登用などを進言し、北宋・[[南宋]]合わせて300余年に
ただし、清廉潔白な人物とは言えず、御史中丞・雷徳驤に強要・収賄を弾劾された際には、社稷の臣であることを理由に却下されている。
== エピソード ==
*趙普が趙匡胤にある人物を推挙したところ、「だめだ」と拒否された。その翌日趙普は同じ人物を推挙し、遂に趙匡胤は怒って上奏文を破り捨てた。趙普はそれを拾い、修復して
*[[森鴎外]]は小説『[[水滸伝]]』の軍師・[[呉用]]の人物像のモデルを趙普だと述べている。これは鷗外独自の説というより、[[中村正直]]
*趙普は下級官吏上がりで学問がなく、看板の額に誤字を書くなどの失敗があった。このため、趙匡胤から学問を薦められて初めて読書をするようになったと言われている。仕事が終わって帰宅後、常に家で『[[論語]]』を読んだ。趙匡義に死ぬ間際、「私は論語の半分で太祖に天下を取らせました。後の半分であなたの治世を太平に致しました」と述べたという。このことから『[[三字経]]』で「趙中令は魯論を読み、彼既に仕うれども学び且つ勤む。」と謳われ、
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[[Category:北宋の人物]]
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