「二・二六事件」の版間の差分

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午前4時半頃、山口一太郎大尉は電話で本庄繁大将に、青年将校の蹶起と推測の目標を告げた(山口一太郎第4回公判記録)。本庄日記によると、午前5時、本庄繁[[侍従武官長]]のもとに反乱部隊将校の一人で、本庄の女婿である山口一太郎大尉の使者[[伊藤常男]]少尉が訪れ、「連隊の将兵約五百、制止しきらず、いよいよ直接行動に移る」と事件の勃発を告げ、引き続き増加の傾向ありとの驚くべき意味の紙片、走り書き通知を示した{{refnest|group=注釈|走り書きには「今出たから、よろしく頼む」とだけ書いてあった<ref>芦沢紀之『暁の戒厳令』</ref>。}}。本庄は、制止に全力を致すべく、厳に山口に伝えるように命じ、同少尉を帰した。そして本庄は[[岩佐禄郎]][[憲兵 (日本軍)|憲兵司令官]]に電話し、さらに宿直中の[[侍従武官]][[中島哲蔵]]少将に電話して、急ぎ宮中に出動した。
 
中島侍従武官が[[甘露寺受長昭和天皇]][[侍従]]に連絡して、への第一報は鈴木貫太郎の妻である鈴木たかよりの直接の電話であった<ref>昭和天皇も事件を知ることになる実録 昭和11年篇</ref>たかは孫御用掛として迪宮の4歳から15歳までの11年間仕えており親しい関係<ref>[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/1432?page=2 昭和55年12月の記者会見で「鈴木たか直ち、本当軍装私の母親と同じよう着替え、執務室親しくしたのであります」と語っている。]</ref>向かった。中島侍従武官に連絡をうけた[[甘露寺受長]][[侍従]]が天皇の寝室まで赴き報告したとき、天皇は、「とうとうやったか」「まったくわたしの不徳のいたすところだ」と言って、しばらくは呆然としていた<ref>甘露寺受長『背広の天皇』1957年</ref>が、直ちに軍装に着替えて執務室に向かった。また[[半藤一利]]によれば天皇はこの第一報のときから「[[賊軍]]」という言葉を青年将校部隊に対して使用しており、激しい敵意をもっていたことがわかる。この昭和天皇の敵意は青年将校たちにとって最大の計算違いというべきで、すでに昭和天皇の意志が決したこの時点で反乱は早くも失敗に終わることが確定していたといえる。
 
襲撃された内大臣斎藤實私邸の[[書生]]からの電話で、5時20分頃事件を知った木戸幸一内大臣秘書長{{refnest|group=注釈|当時[[学習院]]高等科の二年生だった[[黒木従達]](後に東宮侍従長)は、二・二六事件が起こる前夜、級友の[[木戸孝澄]](木戸幸一の長男)から「今夜あたりからいよいよ決戦になるらしいぞ」と電話を受けたという<ref>[[大隈秀夫]]『昭和は終った』</ref>。}}は、[[小栗一雄]][[警視総監]]、元老西園寺公望の[[原田熊雄]]秘書、[[近衛文麿]][[貴族院議長]]へ電話し、6時頃参内した。すぐに常侍官室に行き、すでに到着していた[[湯浅倉平]][[宮内大臣]]、[[広幡忠隆]]侍従次長と対策を協議した。温厚で天皇の信任も厚かった斎藤を殺害された宮中グループの憤激は大きく、全力で反乱軍の鎮定に集中し、実質的に反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や暫定内閣を成立させないことでまとまり、宮内大臣より天皇に上奏した。青年将校たちは宮中グループの政治力を軽視し、事件の前も後もほとんど何も手を打たなかった。こうして宮中グループの支持を受けることができなかったことも青年将校グループの大きなミスであった。