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{{出典の明記|date=2013年6月}}
'''大日本製糖株式会社'''(だいにほんせいとうかぶしきがいしゃ)は、'''日本精糖株式会社'''を前身とするかつての製糖会社。[[砂糖]]の製造加工を中心とした企業ており、[[第二次世界大戦]]日本が敗戦すまでは[[北大東島]]と[[南大東島]]を所有し、[[植民地]]運営会社と同じく開発や[[行政]]も担っていた
 
==前身会社==
[[1895年]](明治28年)12月に資本金30万円で創立した日本最初の製糖会社である日本精製糖株式会社が前身である。この日本精製糖株式会社が、[[1906年]](明治39年)12月に[[日露戦争]]の好景気の時期に乗じて、日本精糖株式会社を合併して、商号を大日本製糖株式会社と改め、台湾に分蜜糖工場を設立した。翌[[1907年]](明治40年)には[[鈴木商店]]の大里製糖所を買収した<ref>矢内原忠雄「[[帝国主義下の台湾]]」1988年(岩波書店)236ページ</ref>。
===日本精糖(1896-1906)===
日本精糖は[[渋沢栄一]]が1896年(明治29年)に[[大阪]]で設立した製糖会社である。
 
[[1906年]](明治39年)11月14日、資本金を1200万円に増資し商号を[[大日本製糖]]と改めた<ref>[http://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=1190 大日本製糖(株)『日糖六十五年史』] - 渋谷社史データベース</ref>。
[[日東化学]]、[[蔵王鉱業|日東金属鉱山]]とともに[[藤山コンツェルン]]の基幹企業として位置づけられたが、[[藤山愛一郎]]の政治活動により株式の売却が進み藤山家の影響は徐々に弱まる。
 
===日本精製糖(1895-1906)===
大日本製糖の流れを受け継ぐ現在の[[大日本明治製糖]]は[[三菱商事]]の100%子会社となっており、[[三菱グループ]]に属する。
日本精製糖は[[大日本帝国憲法]]が施行された1890年(明治23年)に[[鈴木藤三郎]]が設立した鈴木製糖所を前身とし、[[1895年]](明治28年)12月に[[東京]]で資本金30万円で創立された、日本最初の製糖会社である。
 
[[1895年]](明治28年)12月に資本金30万円で創立した日本最初の製糖会社である日本精製糖株式会社が前身である。{{要出典|範囲=この日本精製糖株式会社が、[[1906年]](明治39年)12月に[[日露戦争]]の好景気の時期に乗じて、日本精糖株式会社を合併して、商号を大日本製糖株式会社と改め、台湾に分蜜糖工場を設立した。翌[[1907|date=2015]](明治40年)には[[鈴木商店]]の大里製糖所を買収した<ref>矢内原忠雄「[[帝国主義下の台湾]]」1988年(岩波書店)236ページ</ref>。10月}}
戦前は[[北大東島]]・[[南大東島]]を所有し、[[植民地]]運営会社のように開発とともに[[行政]]も担っていた。
 
==創立後==
大日本製糖は商号変更後の12月、[[台湾総督府]]から[[台湾]]斗六庁管内原料糖工場の設立を許可され、[[台湾]]に分蜜糖工場を設立した。[[1907年]](明治40年)、[[鈴木商店]]の[[門司]]の大里製糖所を650万円で買収<ref>矢内原忠雄「[[帝国主義下の台湾]]」1988年(岩波書店)236ページ</ref><ref>[http://www.suzukishoten-museum.com/footstep/company/cat3/ 鈴木商店のあゆみ] - 鈴木商店</ref>。
 
===社長藤山雷太の時期===
1910年(明治43年)、砂糖消費税法施行規則が改正により消費税担保物として工場財産を提供し得ることが定められた。また[[韓国]]が日本に併合された。1914年(大正3年)には、[[名古屋精糖]]の全財産を譲り受ける。
 
1918年(大正7年)、 [[藤山コンツェルン]]の[[藤山雷太]]が取締役となる。[[日東化学]]、[[蔵王鉱業|日東金属鉱山]]とともに[[藤山コンツェルン]]の基幹企業として位置づけられたが、[[藤山愛一郎]]の政治活動により株式の売却が進み藤山家の影響は徐々に弱まる。1919年(大正8年)、[[朝鮮製糖]]を合併
 
1923年(大正12年)には、[[内外製糖]]、1927年(昭和2年)には、“植民地会社”のように[[沖縄]]大東諸島の自治を行っていた[[東洋製糖]]を吸収合併し、また、[[新高製糖]]を傘下に収めた。また、[[ジャワ島]]のゲダレン工場で製糖を開始。また1928年(昭和3年)には、[[東京]]に[[東京砂糖取引所]]がに開設された。
 
===社長藤山愛一郎の時期===
1934年(昭和9年)、取締役に[[藤山愛一郎]]が就任。1935年(昭和10年)、[[新高製糖]]を吸収合併。また藤山愛一郎は翌年、[[日本糖業連合会]]の理事長に就任。
 
1938年(昭和13年)、[[台湾]]に[[昭和製糖]]と共同で[[台湾パルプ工業]]設立。1939年(昭和14年)、[[満州]]の[[広東]]東莞工場の委任経営に参加する。1940年(昭和15年)、[[昭和製糖]]を吸収合併。また、[[日本砂糖配給]]株式会社を創立(社長:[[藤山愛一郎]])。
 
昭和16年(1941)には[[帝国製糖]]を吸収合併。また、[[日東理化学研究所]]を設立(理事長:藤山愛一郎)。1942年(昭和17年)にジャワ支社を設置。昭和18年(1943)、
 
昭和18年(1943)、[[中央製糖]]を吸収合併し、[[日本製菓]]、[[太洋水産]]を設立。商号を日糖興業と名称変更。
 
1945年(昭和20年)、[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)の占領政策により[[外地会社]]に指定され[[沖縄]]を含む海外資産没収処分を受ける。[[台湾]]の工場や資産等は[[中国]]へ引渡され、[[海南島]]事業所も引き揚げたが、一方で門司工場でイーストの生産を開始したり、グラニュー糖の輸入を続けた。
 
1947年(昭和22年)、社長の[[藤山愛一郎]]が公職追放の処分を受ける(なお臨時物資需給調整法により一般家庭に主食代替物として砂糖の配給をしたのは[[日本砂糖配給]]である)。
 
1949(昭和29年)には門司工場で焼酎製造を開始し、1950年(昭和25年)にはイーストの直売を開始。また、新たに発足したが、商号は再び[[大日本製糖]]とされた。[[藤山愛一郎]]は10月に公職追放を解除され、以後は[[藤山勝彦]]も含め、首相[[鳩山一郎]]の代理などとして多くの国際会議に出席。
 
1957年(昭和32年)、[[藤山愛一郎]]が[[岸信介]]内閣の[[外務大臣]]となったため社長を辞任し、[[藤山勝彦]]が社長に就任。
 
===社長藤山勝彦の時期===
1971年(昭和46年)1月には、[[台湾]]で創立された[[相馬半治#明治製糖設立|明治製糖]]と[[三菱商事]]と共同し、東日本製糖株式会社(現在の[[新東日本製糖]])を設立して砂糖製造を委託。
 
1982年(昭和57年)7月には、再び[[三菱商事]]と共同で西日本製糖株式会社(現在の[[関門製糖]])を設立し砂糖製造を委託。
 
1984年(昭和59年)3月、累積赤字解消のため[[ニット―]]へ事業を譲渡し、[[ニット―]]が大日本製糖と商号を変更。結果的に三菱商事100%出資となった。
 
大日本1996年(平成8年)、[[相馬半治#明治製糖の流れ設立|明治製糖]]と合併し、商号受け継ぐ現在の'''[[大日本明治製糖]]'''と改称。現在は[[三菱商事]]の100%子会社となっており、[[三菱グループ]]に属する。
 
== 立法に関する事件 ==
1902年(明治35年)、『輸入原料砂糖戻税』による輸入規制を5年から11年に延長させるため、後の大日本製糖取締役らが[[帝国議会]]議員らを[[贈賄]]その他で買収した。その後社内の対立から、1908年(明治41年)、同取締役らが自らの[[贈賄]]を[[東京地方裁判所]]検事局へ通報した。
 
事件の発覚後、[[帝国議会]]の議員20名の他、通報した取締役も有罪となった([[日糖事件]])。1908年3月27日に第24回帝国議会が閉会してから、同年12月21日に第25回帝国議会が開会するまでの間の出来事である。
 
== 脚注 ==