「シネクラブ・デュ・カルティエ・ラタン」の版間の差分

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'''シネクラブ・デュ・カルティエ・ラタン'''([[フランス語{{lang-fr|仏語]]'''Le Ciné-club du Quartier latin'''}})は、[[フランス]]・[[パリ]]にかつて存在した[[シネクラブ]]。[[エリック・ロメール]]が主宰し、10代の[[ジャン=リュック・ゴダール]]や[[フランソワ・トリュフォー]]、[[ジャック・リヴェット]]が在籍した集団として知られる。
 
== 概要・来歴 ==
* 当時20代の[[リセ]]教師であったロメールの教え子が当初組織したシネクラブで、[[1948年]]、毎週木曜日にパリ・[[セーヌ左岸]][[カルチエ・ラタン|カルティエ・ラタン]]の[[ダントン街]]で開かれた定例上映会の解説役をロメールが引き受けることになる。[[1930年代]]の[[アメリカ映画]]を中心にさまざまなフィルムを上映した。[[アンドレ・バザン]]や[[ジャン=ジョルジュ・オリオール]]らが[[1948年]]に組織し[[ジャン・コクトー]]を会長に戴いた、錚々たる面々によるもうひとつのシネクラブ「[[オブジェクティフ49]]」の人々も、若い世代が催した意欲的なこの上映会に参加していた。
* [[1950年]][[5月]]、ロメールが編集長となり、それまでの機関誌を『[[ラ・ガゼット・デュ・シネマ]]』として新創刊。ゴダールやリヴェットが現代の映画について論じた。同年[[11月]]を最後に5号で廃刊、バザンや[[ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ]]らの翌[[1951年]][[4月]]の『カイエ・デュ・シネマ』誌創刊の動きに合流した。
* [[ソルボンヌ大学]]と[[:fr:Institut des hautes études cinématographiques|IDHEC]](フランス高等映画学院、現[[:fr:Fondation européenne pour les métiers de l’image et du son|Fémis]])とに留学していた[[エルネスト・ド・スーザ]]も同シネクラブのメンバーで、彼はその後、[[ポルトガル]]・[[リスボン]]に戻ってシネクラブ運動を組織し、[[イタリア]]の[[ネオレアリズモ]]や[[フランス]]の[[ヌーヴェルヴァーグ]]の影響色濃い[[シネマ・ノーヴォ (ポルトガル)|シネマ・ノーヴォ]]運動の[[映画監督|映画作家]]となった。
 
== 主なメンバー ==
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== 外部リンク ==
* [http://www.google.co.jp/maps?hl=ja&q=&near=rue+danton%2C+Paris%2C+France Google Map] ダントン街の位置 [[サンジェルマン大通り]]に接している。
 
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