「一国平均役」の版間の差分

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一国平均役には必ず朝廷の認可を受けて一国平均役を命じた宣旨の発給を必要としていたが、これは不輸荘園の中には朝廷から直接不輸の認定を受けた[[官省符荘]]も含まれていたことによる。また、こうした造営や儀式の負担は本来は公領からの官物から負担すべきものであり、一国平均役は臨時の措置であった。そのため、国司側が官物からの負担で賄える場合には申請を行わないケースもあった。また、朝廷が能動的に一国平均役の宣旨を出すようになると、朝廷の[[行事所]]が荘園領主や在地領主に対して直接納付を命じる事例や荘園領主側が一括して[[京済]]する事例も登場する。反対に一国平均役の免除を希望するの場合は、免除を希望する荘園領主側から免除の申請を行う必要があり、個別の免除には[[官宣旨]]、[[王家領]]などを対象とした一括の免除には太政官符・[[太政官牒]]の発給を伴う免除の認可を必要とした。<ref name=uesima/>また、一国平均役の賦課は、国衙が作成した国内の土地台帳である[[大田文]]を基にして実施された。大田文の成立には、一国平均役との強い関連が想定されている。
 
平安最末期の[[治承・寿永の乱]]において、[[平氏政権]]は諸国から[[兵粮米]]を賦課しているが、これも一国平均役として認識されていた。平氏政権はまた、[[墨俣川の戦い]]に備えて、[[伊勢国]]へ水夫と船の雑役を課しており、宣旨が国司へ発出されてから10数日の内に水夫と船の徴発が完了している。このことから、一国平均役の賦課に即応できる体制が、諸国において構築されていたと見られている。[[鎌倉幕府]]が成立すると、朝廷は源頼朝に対して東大寺再建の勧進事業推進を名目に一国平均役の徴収の権限を与える[[建久四年五月宣旨]]を出した。これによって朝廷は幕府の力を背景に確実な徴収が望めるようになり、また朝廷に代わって幕府による一国平均役の賦課も行われるようになった<ref name=uesugi>上杉和彦「国家的収取体制と鎌倉幕府」(初出:『歴史学研究』657号(1994年)/所収:上杉『鎌倉幕府統治構造の研究』(校倉書房、2015年) ISBN 978-4-7517-4600-4 第一部第一章)</ref>
 
[[鎌倉時代]]には、国司に代わって[[守護]]が国衙を掌握するケースが多くなり、[[鎌倉幕府]]による一国平均役の賦課も行われるようにの背景となった。[[室町時代]]になると、一国平均役は、守護の[[段銭]](たんせん)という形に変質し、守護領国形成に影響を与えた。
 
== 脚注 ==