「愛新覚羅慧生」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
Iganin (会話 | 投稿記録)
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
26行目:
[[1945年]](昭和20年)に[[日本の降伏]]により、満州国は解体する。父は[[赤軍]]に捕らえられ、以後[[1960年]](昭和35年)(慧生の死後)に釈放されるまで[[ソビエト連邦]]と[[中華人民共和国]]で獄中生活を送ることになる。一方、母と妹は[[中国大陸]]を流転した末に[[1947年]](昭和22年)日本に帰ってくる。日本に帰ってきた母と妹は慧生のいる日吉の嵯峨家で一緒に生活することになる。
 
慧生は[[学習院初等科]]・[[学習院女子中・高等科|学習院女子中等科]]・[[学習院女子中・高等科|学習院女子高等科]]と学んだ。中等科に進む頃から[[中国語]]の勉強を始め、高等科に在学中の[[1953年]](昭和28年)<ref>年は[福永2011年、84頁]による。</ref>、中国の[[周恩来]]首相に対して「父に会いたい」という中国語で書いた手紙を出し、これに感動した周により、連絡が取れなかった父との文通が認められる。
 
高等科の3年の時に[[東京大学]]の中国哲学科への進学を希望するが、親類の反対に遭い<ref>[[哲学]]は赤([[社会主義]])に染まりやすいことと、その年に哲学科を受験する予定の女子は一人のみで、男の学生と混じって哲学を論じているうちに女らしさが薄れ、生涯を独身で過ごす可能性があるため[愛新覚羅浩1992年、211・212頁][愛新覚羅溥傑1995年、201頁]。</ref>、[[1956年]](昭和31年)[[学習院大学]][[文学部]][[国文科]]に入学する。同じ学科の男子学生・大久保武道と交際をするが、母を始めとする家族には交際を打ち明けられる環境ではなかった<ref>渡辺1996年、188頁。大久保が嵯峨家を訪れた際には、母は「あのひと一体なに?ガス会社の集金人かと思った」と嘲笑したとされる[穂積ほか1961年]。</ref>。[[1957年]](昭和32年)[[12月4日]]の夜に入る頃、[[天城山]]で大久保の所持していた[[ピストル]]で大久保と心中死したと推察されている。2人の遺体は[[12月10日]]に発見された([[天城山心中]])。なお、嵯峨家側は大久保による無理心中([[ストーカー]]殺人)だったと主張している。