削除された内容 追加された内容
でここ (会話 | 投稿記録)
でここ (会話 | 投稿記録)
33行目:
[[室町時代]]には、『[[鎌倉大草紙]]』によれば、[[関東公方]]の[[足利持氏]]が敵対する甲斐の[[武田信長]]を追討し、持氏が派兵した[[一色持家]]と信長勢の合戦が「さる橋」で行われ、信長方が敗退したという<ref>『山梨県の地名』、p.118</ref>。文明19年([[1487年]])には[[聖護院道興]]『[[廻国雑記]]』において、道興が[[小仏峠]]を越えて当地を訪れ、猿橋の伝承と猿橋について詠んだ[[和歌]]・[[漢詩]]を記録している<ref>『山梨県の地名』、p.119</ref>。
 
戦国時代には、『[[勝山記]]』永正17年([[1520年]])3月には郡内地方の国衆・[[小山田信有 (越中守)|小山田信有]](越中守)が猿橋の架替を行っている<ref>『山梨県の地名』、p.119</ref><ref>丸島(2013)、p.89</ref>。この信有による架替は、[[小山田氏]]の都留郡北部への支配が及んだ証拠とも評価されている<ref>丸島(2013)、p.89</ref>。天文2年([[1533年]])にも焼失し、天文9年に再架橋されている<ref>『山梨県の地名』、p.119</ref>。『勝山記』によれば、大永4年([[1524年]])2月11日に改修後甲斐守護・[[武田信虎]]は同盟国である山内上杉氏の支援のため猿橋に陣を構え、相模国奥三保(神奈川県[[津久井郡相模原市]])へ出兵し相模の[[北条氏綱]]と戦い、「小猿橋」でも戦闘があったという<ref>『山梨県の地名』、p.119</ref><ref>丸島(2013)、p.91</ref>。戦国期には小山田氏は武田氏に従属し、『勝山記』によれば享禄3年([[1530年]])正月7日に越中守信有は当地において氏綱と対峙している<ref>『山梨県の地名』、p.119</ref><ref>丸島(2013)、p.92</ref>。『勝山記』によれば、留守中の3月には小山田氏の本拠でる中津森館(都留市中津森)が焼失し、4月23日に越中守信有は矢坪坂の戦い(上野原市大野)において氏綱に敗退している<ref>丸島(2013)、p.92</ref>。
 
また、猿橋には国中の[[永昌院 (山梨市)|永昌院]](山梨県[[山梨市]]矢坪)の[[寺領]]も存在していた<ref>『山梨県の地名』、p.119</ref>。