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'''シャルル・アドルフ・ヴュルツ'''(Charles Adolphe Wurtz, [[1817年]][[11月26日]] – [[1884年]][[5月10日]])は[[フランス]]の[[化学者]]である。'''ヴルツ'''、'''ウルツ'''とも表記される。
 
== 生涯 ==
[[ストラスブール]]の近くヴォルフィスハイム (Wolfisheim) に生まれる。1834年に[[プロテスタント]]系の[[ギムナジウム]]を卒業した。父親はルーテル教会の牧師であり、ヴュルツに神学を学ぶことを望んでいたが、彼が薬学の道に進むことを許した。化学的な面に特に情熱を傾けて成功を収め、1839年にはストラスブール大学薬学部で化学科長に任じられた。1843年に[[アルブミン]]と[[フィブリン]]に関する論文で医学博士号を取得したのち、[[ドイツ]]・[[ギーセン]]の[[ユストゥス・フォン・リービッヒ]]の元で学んだ。1年後にパリに戻り、[[ジャン=バプティスト・デュマ]]の私有の研究室で研究を行った。1845年、薬科大学 (École de Médecine) でデュマの助手となり、4年後には有機化学の講座を与えられ、講義をするようになった。薬科大学の彼の実験室は設備が非常に貧弱だったので、これを補うため1850年に個人的なものをルー・ガレンシア (Rue Garencire) に作ったが、すぐに建物が売られてしまったため、この実験室はあきらめざるを得なかった。1850年に[[ヴェルサイユ]]で新設された農芸化学研究所で教授職を得たが、1852年には廃校になってしまった。翌年、デュマの辞職により薬学部有機化学講座に、[[マシュー・オルフィラ]]の死去により鉱物化学・毒性学講座にそれぞれ空席ができた。これらが合併されて新しい講座となり、ヴュルツが教授として就任した。1866年に薬学部長に任じられると、ドイツに比べてかなり遅れていた学生教育用の実験室の整備のため、建物の再編・再構築に努めた。1870年の彼の報告書 ''Les Hautes Études pratiques dans les universités allemandes'' に記録が残っている。
 
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==関連項目==
*[[ウルツ鉱]]:[[閃亜鉛鉱]]の同質異像。ヴュルツにちなみ命名された。<br />{{1911}}
 
{{DEFAULTSORT:うゆるつ あとるふ}}
[[Category:フランスの化学者]]
[[Category:コプリ・メダル受賞者]]
[[Category:19世紀の自然科学者]]
[[Category:パリ大学の教員]]
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[[Category:1817年生]]
[[Category:1884年没]]
{{1911}}