「天童藩」の版間の差分
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[[明治]]元年([[1868年]])1月、藩主・[[織田信学]]は新政府より上洛の命を受けた。信学が病床にあったため、嫡男の[[織田信敏|信敏]]が代理として参内する。このとき、新政府から奥羽鎮撫使先導に任じられ、織田氏重臣の[[吉田守隆|吉田大八]]が新政府軍の奥州の道案内役を務めることとなった。同年4月、吉田は奥羽鎮撫副総督である[[沢為量]]を先導して[[庄内藩]]と戦ったが、庄内藩の猛攻の前に大敗を喫し、天童城下は焼き討ちに遭った。翌5月、[[奥羽越列藩同盟]]が結成されると、天童藩も同盟軍として参戦せざるを得なくなり、吉田は[[切腹]]させられた。やがて新政府軍の反攻に遭って9月に降伏。新政府の処断により、藩主・織田信敏(1868年3月19日に家督相続していた)は弟の[[織田寿重丸|寿重丸]]に家督を譲って隠居し、所領2000石を没収された。しかし寿重丸は幼少であったため、新政府の計らいで信敏が再任して藩主(藩知事)となる。明治4年([[1871年]])7月14日、[[廃藩置県]]により天童藩は廃藩となって[[天童県]]となる。同年8月、[[山形県]]に編入された。
なお
天童藩江戸留守居役であった[[吉田専左衛門]]は[[歌川広重]]と親交があったため、広重の肉筆画が「天童広重」として現在の村山郡内にも現存されている。また祖先にあたる織田信長は、新政府の計らいにより神号を下賜され、明治3年([[1870年]])4月、舞鶴山上に[[建勲神社 (天童市)|建勲神社]]が建立されることとなった。
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=== 織田家 ===
[[外様大名|外様]] - 2万石→1万8000石
▲|[[織田信美|信美]]
▲|[[織田信学|信学]]
▲|[[織田信敏|信敏]]
▲|[[織田寿重丸|寿重丸]]
▲|[[織田信敏|信敏]]
== 幕末の領地 ==
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[[Category:藩]]
[[Category:天童藩|*]]
[[Category:羽前国|藩てんとう]]
[[category:勝幡織田氏|藩てんとう]]
[[Category:山形県の歴史]]
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