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'''伊集院 忠倉'''(いじゅういん ただあお、生没年詳)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[島津氏]]の家臣。父は[[伊集院忠朗]]、子は[[伊集院忠棟|忠棟]]、[[伊集院春成|春成]]。
{{出典の明記|date=2008年11月}}
'''伊集院 忠倉'''(いじゅういん ただあお、生没年未詳)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[島津氏]]の家臣。父は[[伊集院忠朗]]、子は[[伊集院忠棟|忠棟]]、[[伊集院春成|春成]]。
 
主に[[薩摩国]]における国人の統制などで活躍した。主に[[島津貴久]]に仕えた。[[1549年]]には[[樺山氏]]と[[北原氏]]を和睦させ、同年の[[黒川崎の戦い]]でも父・忠朗とともに出陣して、暴風に乗じた奇襲策で[[肝付兼演]]を破り、降伏させている。これらの功績により、[[1558年]]からは島津氏の筆頭家老を務めることとなった。
 
[[島津貴久]]仕え、[[薩摩国]]における国人の統制などで活躍した。主に[[島津貴久天文 (元号)|天文]]に仕えた。18年([[1549年]]には[[樺山氏]]と[[北原氏]]を和睦させ、同年の[[黒川崎の戦い]]で忠朗とともに出陣して、暴風に乗じた奇襲策で[[肝付兼演]]を破り、降伏させている。これらの功績により、[[1558年]]からは島津氏の筆頭家老を務めることとなった
 
これらの功績により、[[弘治 (日本)|弘治]]4年/[[永禄]]元年([[1558年]])からは島津氏の筆頭家老を務めることとなった。
 
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[[Category:伊集院氏|たたあお]]
[[category:戦国武将]]
[[category:薩摩国の人物]]
[[Category:伊集院氏|たたあお]]
[[category:生没年不詳]]