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'''ナバラ州'''({{lang-es|Navarra}})または'''ナファロア州'''({{lang-eu|Nafarroa}})は、[[スペイン]]の[[スペインの地方行政区画|自治州]]の1つである。一県一州の自治州であり'''ナバラ県'''(かつてのパンプローナ県)単独で構成される。州都は[[パンプローナ]](バスク語:イルーニャ)。スペイン語では第2音節にアクセントがあるため、'''ナバーラ州'''とも表記される。英語、フランス語ではナヴァール(Navarre, {{IPAc-en|lang|n|ə|ˈ|v|ɑr}})。
 
正式名称は'''ナバラ特権州'''(スペイン語 : コムニダ・フォラル・デ・ナバラ、{{lang-es|Comunidad Foral de Navarra}}, {{IPA-es|komuniˈðað foˈɾal de naˈβara|}}, バスク語 : ナファロアコ・フォル・コムニタテア、{{lang-eu|Nafarroako Foru Komunitatea}}, {{IPA-eu|nafaroako foɾu komunitatea|}})であり、特権(フォラル、[[フエロ]])とはかつて[[カスティーリャ王国]]が各地域に認めていた地域特別法のことである。西は[[バスク州]]、南は[[ラ・リオハ州]]、東は[[アラゴン州]]に接し、北は[[フランス]]の[[アキテーヌ地域圏]]に接している。ナバラとは[[バスク語]]で「森」または「オークの林」という意味である<ref name=ishizuka54>石塚秀雄『バスク・モンドラゴン 協同組合の町から』彩流社、1991年、p.54</ref>。
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<Gallery>
Aralarretik Aizkorri mendikatea.JPG|[[アララール山地]](山岳部)
Hayedo de Irati 1. Otoño de 2011.JPG|[[イラティの森]](山岳部)
PuenteArga.jpg|[[アルガ川]](中央部)
Bardenas Reales 4.jpg|[[バルデナス・レアレス]](河岸部)
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=== 中世 ===
[[File:Kloster Leyre.jpg|right|thumb|200px|「ナバラ王国の心臓」と称えられた[[レイレ修道院]]]]
 
{{See also|ナバラ王国}}
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=== 近世 ===
[[File:castillo javier.jpg|right|thumb|200px|[[フランシスコ・ザビエル]]が育った[[ハビエル城]]]]
 
1512年にはカスティーリャ王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド5世]]がナバラ王国に侵攻して併合し<ref name=hagio7175>萩尾・吉田(2012)、pp.71-75</ref><ref>{{cite book | author1 = Monreal, Gregorio| author2 = Jimeno, Roldan|year = 2012 | title = Conquista e Incorporación de Navarra a Castilla| publisher = Pamiela | location=Pamplona-Iruña| isbn = 978-84-7681-736-0}}, pp. 30-32</ref>、ナバラ王国は[[カスティーリャ王国]]の副王領となったが、立法・行政・司法の各機構はナバラ王国に残された<ref name=watanabe36>渡部哲郎『バスク –もう一つのスペイン-』彩流社、1984年、p.36</ref>。ナバラ人はフランス王朝の終焉をそれほど残念には思わず、カスティーリャ王国内での自治権の保持に力を注いだ<ref name=bard157>バード(1995)、pp.157-160</ref>。ナバラ王位にあった[[カタリナ (ナバラ女王)|カタリナ]]と[[フアン3世 (ナバラ王)|フアン3世]]は[[ピレネー山脈]]北部に逃れ、1555年までに、アルブレ家の女王[[ジャンヌ・ダルブレ]]が率いるナヴァール王国(ナヴァール=ベアルン王国)が確立された。ピレネー山脈の南側では、1610年にアンリ4世がスペイン側のナバラ王国に進軍の準備を行うまで、副王領としての王国は不安定なバランスの上にあった。ナヴァール王エンリケ3世が1589年にフランス王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]として即位すると、歴代のフランス王はナヴァール王を兼ね、フランス側のナヴァール王国は1791年まで存続した。
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=== 近代 ===
[[Image:NafarForuak.JPG|thumb|right|200px|1890年代のガマサダ後に[[パンプローナ]]に建てられた記念碑]]
 
カルリスタがカルリスタ戦争に敗北すると、バスク地方の他地域では[[バスク・ナショナリズム|バスク民族主義]]が台頭したが、ナバラでは状況が異なった<ref name=bard281282>バード(1995)、pp.281-282</ref>。ナバラでは敗戦後もカルリスタの影響力が大きく、フエロの存続を大義として保ち、1936年までは一定の政治力を発揮した<ref name=bard282284>バード(1995)、pp.282-284</ref>。1931年にバスク地方が提出したエステーリャ憲章(バスク自治憲章案)は、カトリックを中心に据えたために共和国議会で同意が得られなかった。1933年に再度作成されたバスク自治憲章案はカトリックを中心に据えず、アラバ県・ビスカヤ県・ギプスコア県の住民投票で承認されたが、ナバラ県では反対票が過半数に達した。1931年から1939年の[[スペイン第二共和政|第二共和政]]下では左派と右派の勢力の分裂が続き、スペイン国内は政治的に混迷を極めた。1933年10月には数千人の労働者が裕福な地主の土地を占領し、地主は労働者に怨恨の念を抱いた<ref>{{cite book | author=Paul Preston | title=The Spanish Holocaust: Inquisition and Extermination in Twentieth-Century Spain. | publisher= HarperCollins | location= London, UK | isbn=978-0-00-638695-7 | year=2013 | page=182}}</ref>。1936年7月18日には[[エミリオ・モラ]]将軍がパンプローナで反乱を起こし、3年に渡る[[スペイン内戦]]が勃発した。この軍事反乱後には、強硬派によって要注意人物に指定された個人に対するテロ活動が相次ぎ、進歩的な共産主義者に加え、軽度の共産主義者や、政権にとって単に不都合なだけの人物でさえもテロの対象となった<ref>Preston, P. 2013, p. 179-181</ref>。特にナバラ南部のエブロ河岸に沿った地域で大規模な粛清が行われ、ファシスト風敬礼に適応した聖職者らは自発的に謀略に加担し、また要注意人物殺害の任務にさえ関与した<ref>Preston, P. 2013, p. 182-184</ref>。少なくとも2,857人が殺害され、さらに305人が虐待や栄養失調などの理由により刑務所で死亡した<ref>Preston, P. 2013, p. 183</ref>。死者は集団墓地に埋められるか、ウルバサ山などの中央丘陵地にある峡谷に廃棄された。[[バスク・ナショナリズム|バスク民族主義者]]はより劣った地に追い払われ、エステーリャ市長であり[[CAオサスナ]]の共同創設者だったフォルトゥナト・アギーレは1936年9月に死刑に処された。パンプローナは1937年4月以降の北方作戦時に、反乱軍の作戦開始地点となった。