「大洲藩」の版間の差分

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2代[[脇坂安元|安元]]は[[元和 (日本)|元和]]3年(1617年)、[[信濃国]][[信濃飯田藩|飯田藩]]に転封となった。同年、[[加藤貞泰]]が[[伯耆国]][[米子藩]]より6万石で入部した。
 
元和9年(1623年)、貞泰が跡目の届け出をしないまま急死したが、長男の[[加藤泰興|泰興]]が将軍[[徳川秀忠]]に[[御目見]]し、相続を認められた。その際、弟の泰但(後の[[加藤直泰|直泰]])は1万石分知の内諾を得て新谷藩が成立した。これがきっかけとなり[[寛永]]16年([[1639年]])まで[[家騒動]]が続き、結局[[内分分知]]ということで決着した。
 
加藤家には好学の気風があり、藩もこれに倣い好学・自己錬成を藩風とした。初期の大洲藩からは[[儒学者]]の[[中江藤樹]]が出ている。