「V9 (読売ジャイアンツ)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
23行目:
翌[[1974年]]には[[中日ドラゴンズ|中日]]の優勝を許し、V10はならなかった。しかしながら順位は2位も、優勝した中日とはシーズン終わってゲーム差はなしであった。この年を最後に川上が監督を勇退し、同時に長嶋・黒江・森も現役を引退した(長嶋はそのまま監督に就任し、黒江はコーチに就任、森は解説者に転身した)。長嶋が監督に就任した翌[[1975年]]は、一転して球団史上初となるシーズン最下位に転落した。やはり第一要因は長嶋自身の穴であり、[[張本勲]]の大型トレードや、外国人枠を起用で解決することとなった。[[1976年]]・[[1977年]]にリーグ2連覇を達成したが日本シリーズはいずれも[[オリックス・バファローズ|阪急]]に敗退し、翌[[1978年]]にはV9メンバーだった[[広岡達朗]]監督率いるヤクルトとの優勝争いに敗れた。
 
V9メンバーから[[プロ野球監督]]になった者が多いのも特徴的で、巨人以外の監督も含めると10人以上が挙げられる。独自の管理野球で[[埼玉西武ライオンズ|西武]]チーム常勝軍団に導いた広岡達朗、川上野球を受け継いだ森祇晶(昌彦より改名)、川上野球からの脱却を目指し図った長嶋茂雄、攻撃野球を目指した王貞治、守備優先のチームを作った[[土井正三]]・高田繁、「[[史上最強打線]]」を率い作った堀内恒夫など、V9戦士が監督をつとめたチームの特色は様々であった。
 
また、V9以後巨人は日本シリーズを連覇したことがない。