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[[1582年]](天正10年)、家臣[[明智光秀]]による信長への謀反([[本能寺の変]])の後まもなくして何らかの原因によって焼失し、その後廃城となり、現在は[[石垣]]などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧した[[宣教師]][[ルイス・フロイス]]などが残した記録によって、焼失前の様子をうかがい知ることができる。
 
日本の城の歴史という観点からは、安土城は[[六角氏]]の[[観音寺城]]を見本に総[[石垣]]で普請された城郭であり初めて石垣に天守の上がる城となった、ここで培われた築城技術が[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団「[[穴太衆]]」はその後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった、という点でも重要である<ref>ただし、安土城に残る当時の石垣の積み方は場所により様々であり、特定の「穴太積み」なる技法の存在を想定するのは難しい。</ref>。
 
城郭遺構は安土山の全体に分布しており、当時の建築物では[[仁王門]]と三重塔が、現在 城山の中腹に所在する[[総見寺|摠見寺]]の境内に残っている。また二の丸には信長の[[霊廟]]が置かれている。