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華々しいスタートとは裏腹に、有力な興行基盤を持たない東京プロレスは早々に経営が悪化する形となった。東京プロレスの旗揚げと同時に設立された同団体専門の興行会社『オリエント・プロモーション』を中心に営業活動を行っていたが、地方での営業面では日本プロレスに圧倒されており、全34戦を予定していた東北地方を中心とした旗揚げシリーズはキャンセルが相次ぎ、たった20戦しか行われなかった。また、当時は有力な資金源となっていたテレビ局とも契約出来なかった。
 
当初、経営陣は[[MBSテレビ|毎日放送]]にテレビ中継の話を持ち込み、現場・編成サイドでは一旦合意したが、当時の社長だった[[高橋信三]]の反対により立ち消えになったという<ref>出典:[[鈴木庄一]]『鈴木庄一の日本プロレス史』下巻、第二期黄金時代、昭和39年〜58年。[[恒文社]]、[[1983年]][[12月]]発売。</ref><ref>髙橋は当時「エログロ排除路線」を打ち出していたため、プロレス中継の製作に慎重な姿勢を取ったという。しかし、後年になると、当時系列関係にあった[[テレビ朝日|NETテレビ]]により日本プロレスの中継番組として開始された『[[テレビ朝日|NET]][[ワールドプロレスリング]]』のネット受けを実施し、同時に関西開催時の製作協力も行った。</ref>。
 
このような最悪の経営状況の中でも、豊登は相変わらず資金を横領の上、ギャンブルに私的に流用し、事実上豊登の個人会社状態となっていたと言われる。猪木の発言によるとこの時点で「ギャンブルによる借金は5千万円近くあり、事実上東京プロレスの負債に回された」と証言しており、また、当時若手選手であった[[永源遙]]も「(いくら現在と貨幣価値が違うとは言え)公務員が月給2万円を越えていた時代に年俸1万円だった」と後に述懐している。旗揚げ後は選手の合宿所も設置されたが、食費は会社持ちではあるもののその米代にも窮していたと言われている。興行収益の無さや豊登による公金の私的流用も相まって窮乏する悪いムードの中、東京プロレスにとって致命的とも言える事件が発生した。