「西条祭り」の版間の差分

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[[Image:Saijou danjiri inside.JPG|thumb|200px|西条型だんじりの内部構造]]
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'''西条祭り'''(さいじょうまつり)とは、[[愛媛県]][[西条市]]で行われる秋祭りのうち、平成16年([[2004年]]([[平成]]16年))の[[日本の市町村の廃置分合|市町村合併]]以前の市域(旧西条市)にある4つの神社の[[例祭|祭礼]]の総称である。ポスターなどには「西条まつり」と表記される。
 
 
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各神社の祭礼は神社創建時より催行なされていた。それが現在のように氏子が祭り屋台を奉納する大掛かりな祭礼行事になったのは江戸時代初期から中期と考えられる。
 
伝承を省くと現在文献で確認できる最も古いものは、紀州徳川分家2代 [[松平頼致]]が藩主を継承した正徳元年([[1711年]](正徳元年)の記録で「''[[新居郡]][[一宮神社 (新居浜市)|一宮神社]]祭礼に「台車1、御船1、祭具、宰領の配置を定める''」との記録がある。
 
また宝暦元年([[1751年]](宝暦元年))の記録によれば 西条藩主は屋台の宰領(総代)について、祭礼の期間に限ることとして 平素の身分にかかわらず[[裃]]の着用、[[打刀|小脇差]]の帯行を出願によって許可しており、これについては 氷見の祭礼(石岡神社祭礼)の記述における「''供奉その他役付の者屋台宰領の者は従来の仕来りの通り裃着用苦しからず。但し衣服は面服を着用すること''」という触書が当時の代表的な記録として確認されている。
 
一方、冒頭の一宮神社は現在の新居浜市域にあるが、現在の新居浜市の祭礼においては [[新居大島]]を除き だんじり形式の山車は奉納されていない。また、後述の石岡神社祭礼における「''吉祥寺の住職が…''」とされる伝承についても それを裏付ける文献は現時点では発見されていない。ただし口伝といえども これら一連の内容は現地において古来から連綿と受け継がれてきた 当時の生きた歴史的証言の継承でもあり、またこれらを否定する文献もいまだ存在していない。
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西条祭りのスタートとなる嘉母神社の祭礼は[[体育の日]]の前々日と前日に行われ、禎瑞地区の氏子により[[太鼓台|子供太鼓台]]が奉納される。
 
禎瑞地区は天明2年([[1782年]](天明2年))、西条藩の[[干拓]]事業によってできた田園地帯で、この時、地元の[[氏神]]として嘉母神社も同時に創建された。[[神幸祭]]が行われるようになったのは昭和8年([[1933年]](昭和8年))のことである。
 
昭和50年([[1975年]](昭和50年))頃、父兄による手作りの子供太鼓台が神幸行列に参加するようになった。当初は発泡スチロールなどを使ったものであったが、順次、金糸刺繍による本格的なものが作られた。現在では地域の祭として定着し、賑わいを見せている。
 
==== 平成23年([[2011年]](平成23年))奉納の子供太鼓台(6台) ====
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*''上組、中組、下組、高丸、八幡(奉納当初は子供だんじりだった)、難波''
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石岡神社の祭礼は氷見・橘地域の氏子により、10月14,15日に行われる。
 
伊曽乃神社よりも早く祭礼にだんじりが登場し奉納されたという伝承があり、曰く「(定かではないが約250-300年前に)''石岡八幡宮''(石岡神社)''の別当寺である[[吉祥寺 (西条市)|吉祥寺]]の住職が、[[河内国]]の[[誉田八幡宮]]にて 当時奉納されていた祭礼山車''([[山車|藤花車]]または[[地車]]の類と思われる)''を見て、当時地元の祭礼には奉納する山車の類がなかったため住職が記憶をたよりにこれを模した屋台を竹でこしらえて奉納した。そしてこの屋台こそが石岡神社祭礼での最初の奉納屋台、寺の下だんじりであった''」とあり、これが「だんじり祭り」としての西条祭りの発祥になったとされている(これには諸説存在するが現在はこれが最も有力な説として支持されている)。このため西条祭り発祥の地として各氏子のプライドも非常に高く、激しく荒々しい[[練り]]や複数の数の屋台での見事な[[差し上げ]]などを得意とし伊曽乃の祭礼とくらべ規模こそ小さいが、それを補って余りある魅力と勇ましさを誇る。
 
またこの地方は近年の都市化の開発の影響を受けることがほとんどないことが幸いして、おもに西条市の中心市街で繰り広げられる伊曽乃神社の祭礼でほとんど見ることができなくなってしまった古風でおもむき深い素朴な時代の西条祭りの姿が現在も守りつづけられている。また複数のだんじりと御輿が御神輿とともに一斉同時に[[かきくらべ]]をする光景は、現在この石岡神社の祭礼だけでしか見ることができない独特の光景であり石岡神社祭礼の最大の見せ場となっている。
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田園地域ゆえの素朴な土地柄と西条だんじり特有の華麗さが非常に高い融合を果たしており、伊曽乃祭礼の豪華な華やかさとはまた違った見ごたえと味わいに満ちて非常に美しく、現代にありながら古き時代の人間味あふれたあたたかさを感じることができる「郷土の祭り」である。
 
平成12年([[2000年]])には石岡神社内より昭和初期の祭りの様子を知ることのできる「氷見石岡神社祭礼渡御行列之図」が発見された。
 
==== 見所 ====
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*午後3時30分頃、各地域での御神楽奉納をすべて終えた御神輿とだんじりの行列がつぎつぎに神社に到着し、境内の桜の馬場でだんじり・太鼓台が御神輿とともに最後のかきくらべを奉納して終わりゆく祭礼の名残を惜しむ。午後5時頃、御神輿が社殿に宮入りし、祭礼が終了する。
 
==== 平成23年([[2011年]](平成23年))奉納のだんじり(27台) ====
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*''土居、古町、寺の下''(西条市指定有形民俗文化財第79号)、''西町、裏組、下町、上町、上之川、上之浦、新町、末長、宮之下、新御堂、新出、久保、新兵衛、山道、尾土居、西之原、大久保、蛭子、朝日町'' (以上、氷見地区)
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*奉納休止中のだんじり  山口
 
==== 2011年(平成23年(2011年)奉納の御輿屋台(2台) ====
*''竹内'' (氷見地区)、''野々市'' (橘地区)
 
=== 伊曽乃神社祭礼 ===
[[伊曽乃神社]]の祭礼は[[江戸時代]]の昔より270年以上の伝統をもつ歴史の長いものであり、歴代の[[西条藩]]主も保護奨励したと伝えられている。これについては地元に伝わる逸話があり、「''江戸時代に[[仙台藩]]の[[伊達氏|伊達公]]が[[江戸城]]内にて[[仙台・青葉まつり|領地の祭り自慢]]をしている折、それを聞いていた西条藩の[[御連枝|松平公]]いわく「そのような祭りより当地の祭りは更に素晴らしいものであるぞ」と語り 後日、絵師に描かせた祭り絵巻を伊達公に贈らせた''」というもの。そのとき伊達家に贈られた「伊曽乃大社祭礼略図」(西条市指定歴史資料第74号)は昭和25年([[1950年]](昭和25年)、伊達家の好意により伊曾乃神社へと寄贈され 現在は社宝として所蔵されている。
また別の資料として 「伊曽乃大社祭礼略図」より更に古い時代の「伊曽乃祭礼細見図」が近年 [[東京国立博物館]]で発見されており 当時の祭礼の様子が 楽車の彫刻の細部にいたるまで緻密かつ克明な描写で描かれている。これらの資料により 狂言屋台や[[からくり人形]]の屋台など、現在では伝えられていない屋台の存在も窺い知ることができた。
 
現在では一社の祭礼で奉納される台数としては[[日本一の一覧|全国でも最多]]の80台を超える美しい屋台が勢ぞろいし、10月15,16日の昼夜に渡って<ref>[[西角井正慶]]「年中行事事典」東京堂出版、1958年(昭和33年(1958年)5月23日初版 48p</ref>、勇ましくも優美な[[元禄]]時代絵巻さながらの美しい祭礼模様を繰り広げる。
 
==== 見所 ====
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*御殿前での奉納を終えただんじりは 伊曾乃氏子地区内の最東北部玉津地区の神楽所へ全てのだんじりが向かい、この玉津地区で束の間の休憩と昼食を取る。また毎年この地域に流れる[[渦井川]]上にかかる玉津橋において、地元玉津地区3屋台での「差し上げ」が行われており、地元人が挙げる見所のひとつとして人気が高い。近年までは、隣接する飯積神社例大祭の太鼓台もこの時間に合わせて来て、だんじりと太鼓台の統一運行中では唯一の対面する場所として名高い見所のひとつであったが、近年の屋台台数の増加により過密化した運行スケジュールの都合で、現在では太鼓台は早い時間に玉津橋に来るようになり、以前のような両祭礼の屋台が練り合う事は出来なくなっている。
*同日夕刻、[[宮入り]]。対外的には「川入り」として西条祭りを象徴する最大の見所として最も有名な場面でもある。市内の神楽所を巡幸する御神輿の露払いの役目を終えた各だんじりは、行列をなして市内と伊曽乃神社の間を流れる[[加茂川 (愛媛県)|加茂川]]河川敷に集合。土手上で対岸にむけてずらりと整列し(写真参照)、夕闇迫るなか、神様の御神輿の[[渡御]]を見送る。[http://commons.wikimedia.org/wiki/Image:Isono_miyairi_01.JPG]「ご神体の渡御」をもって祭礼の終わりとされることから、渡御する御神輿を中野地区のだんじりがとり囲んで御神輿と最後の練りあいをし、土手上で見送るだんじりとともに終わりゆく祭りの名残りを惜しむ。なお、意外と知られていないが 近代以前の宮入りでは 神輿が一銭橋を、宮司がただ馬に乗って川を渡るのみであったが、戦後、祭りの興奮冷めやらぬ名残惜しさより現在のような「川入り」の風習が始まり、今では祭り最大の見せ場として定着している。
*祭礼公式行事そのものは川入り後の御神輿の伊曾乃神社宮入で完了となるが、その後も[[伊予西条駅|JR伊予西条駅前]]や「ハルク前くすのき通り」などで提灯に灯りを付けて祭りの最後を愉しむ。特に夜7時半頃から御殿前にて行われる西条校区のだんじり・みこしが全て集まる「夜の御殿前」は幻想的で人気が高い。
 
==== 2012年(平成24年([[2012年]])奉納のだんじり(77台) ====
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*''中野、山道、楠、日明、薮之内、船形、中之段、東原、安知生、洲之内、奥之内'' (以上、神戸地区)
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*奉納休止中のだんじり  東光、中之町(本町二丁目)
 
==== 2011年(平成23年([[2011年]])奉納の御輿屋台(4台) ====
*''中西'' (神戸地区)、''下喜多川'' (神拝地区)、''喜多濱、朔日市'' (以上、西条地区)
 
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*祭礼公式行事は終わっているが、花集めのために玉津校区の太鼓台が市内中央の伊曾乃氏子区域に運行される。
 
==== 2013年(平成25年([[2013年]])奉納の太鼓台(11台) ====
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*''船屋、下島山上組、下島山下組、大谷'' (以上、玉津地区)
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毎年行われる祭り以外にも、その神社の起源から計算して式年単位で屋台を奉納する地区もある。代表例としては石岡神社で行われている。
 
一方で旧西条市であった昭和56年([[1981年]])には市制40周年を記念して石岡、伊曾乃、飯積、嘉母の全屋台が10月16日午後より集結する統一行事が開催された。以後5年ごとに行われていたが、伊曾乃例大祭の川入り神事と市制のイベントとを同一時刻の同一場所で行うことには無理も多々あり、現在では中断している。
 
かたや市民や町内の祭り好きが高じて市外県外への祭りや行事に屋台を奉納あるいは運行することも昭和後期から始まった。昭和51年([[1976年]])に四国の祭りにそして昭和53年([[1978年]])には東京[[銀座]]祭りに、更には昭和57年([[1982年]])昭和59年([[1984年]])には東京[[神宮外苑]]でのTVイベント番組「日本の祭りに参加した。以降 海外では[[ハワイ]][[ホノルル]][[香港]]、国内では関東、北陸、東海(特に伊勢市)、関西、四国の他県、九州まで数年に一度の割合でどこかの屋台が遠征し、近年では地元出身者の[[秋川雅史]]氏がこれらの催しにほぼ毎回参加している。
 
===二重氏子での祭り===
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また、地元人の間では古くから現在に至るまで 祭りを[[神事]]として捉える意識が特に強く、近年の[[新居浜太鼓祭り]]にみられるような'''イベント化・観光化・祭りの土日開催への移行'''に対する嫌悪感・抵抗感が根強い。
 
昭和50年代([[1975年]]~)以降  全国各地の祭りや行事にも西条のだんじりが参加する機会が多くなったが、特に[[伊勢神宮]]への奉納には格別な意識を持っているところに「'''神事としての祭り'''」を尊ぶ祭り人としての気質が如実に現れている(伊勢奉納のきっかけは、伊予のお伊勢さんと称される伊曾乃神社と西条祭りで唄われる[[伊勢音頭]]である。)
 
伊勢神宮や[[伊勢市]]へは現在までに[[神宮式年遷宮|遷宮]]や御鎮座二千年の奉賛、[[宇治橋 (伊勢市)|宇治橋]]の架け替えなどで、小規模納なものではだんじり1台から、大規模になるとだんじり、御輿屋台、太鼓台合わせて30台以上で、回数にして10度以上に渡って遠路奉納しているが、平成26年([[2014年]](平成26年))[[4月12日]]には[[神宮式年遷宮|式年遷宮]]を記念して過去最大となる36台のだんじりと1台の太鼓台とで2100人の[[かきくらべ#かきくらべ(祭礼)|舁き夫]]が[[三重県]][[伊勢市|伊勢]]を訪れ奉納した。
 
このような伊勢神宮への奉納はもちろん、例年の祭礼においても、祭礼の運営費・屋台の維持管理費用などに行政の援助は一切受けず、すべて[[お花]]や自治会費をはじめとする市民の寄付で賄っているのも、西条祭りを愛する市民の誇りとなっている。
 
こういった各種事柄や祭り装束もあって西条市では「蝋燭の一人当たり使用量」が群を抜いて高かったり(80市内全域で百数十以上あるだんじり1台あたりほぼ100本使用され、1度の祭りで10回近く交換がある)、「地下足袋のコハゼを入れるのが早く上手」であったり、小さい子供からご老人までが伊勢音頭を始めとする祭り唄を諳んじたり、和太鼓が得意であったりする。
 
==組織==
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*[[デカンショ節]]
*[[法界節|さのさ節]]
*おいらのだんじり○○だい(おいらの船は300トンの替え歌)
*まつのき小唄
*[[木曽節|木曽の中乗りさん]]
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香川県西部から愛媛県東部の西条市にかけての瀬戸内海沿岸地域は 古来より極めて祭りの盛んな地域であり、それらの中でも特に際立つ異彩を放つのが西条祭りと隣市の新居浜太鼓祭りである。この二つの祭りは、互いにその規模もさることながら地元人の祭りにかける情熱において、地方にもかかわらず全国の有名な祭礼と比肩して譲らぬ非常に激しい祭りとして知られている。また 西条祭りにおける屋台の奉納台数はいまや全国随一とまで言われており、他県に類を見ない非常に大規模な祭りとしても年々その知名度を広めている。
 
天保6年([[1835年]])、第9代西条藩主 [[松平頼学]](よりさと)が命じ、天保13年([[1842年]])に 日野暖太郎和煦 (-にこてる/[[1785年]]-[[1858年]])手により編纂された 西条藩の記録である「西条誌」[http://www.lib.ehime-u.ac.jp/saijo/]には、新居浜の[[一宮神社 (新居浜市)|一宮神社]]の祭礼について「''台尻(だんじり)、並びに御輿太鼓''(これは現在の御輿屋台と思われる)''数、合十七''」という記述があり、元は同一の藩領であった西条・新居浜ともに元は同様の祭りであったとされている。
 
以後、新居浜では次第にだんじりが廃れ、[[讃岐~宇摩地方より伝わった太鼓台]]中心の(ちょうさ)が礼の主役になったのに対し、西条では旧来の形をほぼ残した形で現在に至っている。これによって現代では 西条市が四国の瀬戸内沿岸地域における祭礼文化圏の境界となっており、この地域での祭礼屋台の奉納は西条市以西の地域では現在「西条型だんじり」[http://commons.wikimedia.org/wiki/Image:Saijou_danjiri_.JPG]が主流であり、太鼓台の奉納は少数派りつつあっている。
 
また新居浜市[[新居大島]]での祭礼(ここにも[http://www.dokidoki.ne.jp/home2/kisyoji/ 吉祥寺]という寺が存在する)をはじめとする瀬戸内海海域の離島諸地域の祭礼には西条型だんじりの原初の形態の屋台がいまも奉納されており(※[[大三島]]の[[大山祇神社]]での祭礼(産須奈大祭・[[8月22日 (旧暦)|旧暦8月22日]])には西条型の御輿屋台も存在)、これは「山車(だんじり)」という祭礼神具の形態が太鼓台のように陸上からではなく海から伝播してきたものであることを裏付けており非常に興味深いものがある。
 
ただし、新居大島の祭礼においては現在、島の過疎化による若衆の不足と氏子の高齢化が深刻化しており、祭礼そのものの存続が危うい状況に追い込まれつつある。
 
なお、西条祭りにも新居浜市に近い地域に神社が位置する飯積神社の祭礼においては、現在 新居浜型の太鼓台が新居浜市 大生院地区より4台(新居浜太鼓祭りとの2重奉納)+西条市 飯岡~玉津地区7台の計11台奉納されている。この祭礼での[[かきくらべ]]は隣市の新居浜太鼓祭りと並んでもしてけっして譲らず、むしろより血気盛んな独特の味わいを持つため 飯積祭礼のファンも多い。また練りの技術もとても高く、近年では「寄せ太鼓」の「11台同時差し上げ」の元祖としても知られている。
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*[[秋川雅史]] - 平成18年([[2006年]])、「[[千の風にのって]]」のシングルカヴァーヒットした西条市出身のテノール歌手。イタリアでの修行時代から現在に至って年一度の祭礼期間中にはすべてのスケジュールをキャンセルして必ず帰省し、近年では西条だんじりが出場する他地方のローカルイベントにもほとんど参加している。
*[[長友佑都]] - 日本代表プロサッカー選手。西条市出身。[[明治大学体育会サッカー部#OB|明治大学体育会サッカー部]]在籍時代、長友が叩く応援太鼓は当時の関係者の間で有名だった。
*[[眞鍋かをり]] - 西条市出身のマルチタレント。過去に朝日新聞社刊行:「日本の祭り/西条祭り」にコラムを寄稿。<ref>朝日新聞出版「週刊日本の祭り:15号 西条まつり」2004年8月31日(絶版)</ref>また過去のブログ「[http://b.hatena.ne.jp/entry/manabekawori.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-b966.html 眞鍋かをりのココだけの話](※閉鎖済)」でも祭りについて触れる。