削除された内容 追加された内容
m ボット: 言語間リンク 1 件をウィキデータ上の d:Q11588712 に転記
編集の要約なし
1行目:
'''神余 親綱'''(かなまり ちかつな、[[大永]]6年([[1526年]])? - [[天正]]8年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]([[1580年]][[8月2日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[越後国|越後]][[上杉]]の家臣。[[旗本]]衆。[[神余実綱]]の子。通称'''小次郎'''、隼人佑。
 
== 生涯 ==
越後上杉氏の家臣・神余実綱の子として誕生。[[神余氏]]は元々[[上杉氏]]の[[被官]]で[[安房]]の[[国人]]であったが、何らかの理由で越後国へ移って上杉に仕えるようになり遅くとも親綱の祖父・[[神余昌綱|昌綱]]の代から[[京都]]雑掌・[[外交官]]として重用されていた。
 
親綱も父祖の跡を継ぎ、越後国主となった長尾景虎(後の[[上杉謙信]]のもとで終始重用され続けた。代官として主に京都に駐在し、朝廷や幕府との折衝の傍ら、[[三条西家]]に接近して[[青苧]]などの越後の[[特産品]]の売買に関する[[奉行]]職も勤める。特に青苧による取引は上杉氏の重要な資金源となり、謙信の[[関東]]遠征を資金面で支えた。
 
[[天文 (元号)|天文]]21年([[1552年]])5月12日、謙信が[[従五位下]][[弾正少弼]]に叙任されたことに対する謝儀の使者となり入洛。将軍家へ御礼の品々を献上し、その返礼として[[足利義輝|義藤]]印判の御内書並びに備前国宗の太刀を賜り、同年6月28日に京都より帰着する<ref>[[上杉家御年譜]]一・謙信公による。</ref>。後の天文22年([[1553年]])秋に主君・謙信初[[上洛]]した時には奔走の末、[[後奈良天皇]]への拝謁を成功させた。[[永禄]]元年([[1558年]])には帰京した[[室町幕府]][[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]を祝うための使者にもなっている。
代官として主に京都に駐在し、朝廷や幕府との折衝の傍ら、[[三条西家]]に接近して[[青苧]]などの[[越後]][[特産品]]の売買に関する[[奉行]]職も勤める。青苧による取引は、[[長尾氏]]の重要な資金源となり、謙信の[[関東]]遠征を資金面で支えた。
 
[[天文 (元号)|天文]]21年([[1552年]])5月12日、謙信が[[従五位下]][[弾正少弼]]に叙任されたことに対する謝儀の使者となり入洛。将軍家へ御礼の品々を献上し、その返礼として[[足利義輝|義藤]]印判の御内書並びに備前国宗の太刀を賜り、同年6月28日に京都より帰着する<ref>[[上杉家御年譜]]一・謙信公による。</ref>。後の天文22年([[1553年]])秋の謙信初[[上洛]]時には奔走の末、[[後奈良天皇]]への拝謁を成功させた。[[永禄]]元年([[1558年]])には帰京した[[足利義輝]]を祝うための使者にもなっている。
 
[[天正]]5年([[1577年]])には、[[三条城]]主であった[[山吉豊守]]の死去に伴う山吉家減封・転封時に三条城主として取り立てられる。
 
主君・謙信の死後に起こった上杉氏の[[お家騒動]]である[[御館の乱]]にいては当初は[[木場城]]の[[山吉景長]]らと共に[[上杉景勝]]方に付く動きを見せたが、[[栃尾城]]主の[[本庄秀綱]]と共に[[上杉景虎]]方として参戦。その後も、景勝方の勧誘工作にも応じずに[[黒滝城]]を攻撃した。景虎が自刃した後も抵抗を続け、一旦は和議の調停を申し出るも決裂。天正8年(1580年)、景長が三条城内の旧臣に内応を誘い、それに応じた者により討たれた
 
その後も景勝方の勧誘工作にも応じずに[[黒滝城]]を攻撃した。景虎が自刃した後も抵抗を続け、一旦は和議の調停を申し出るも決裂。山吉景長が三条城内の旧臣に内応を誘い、それに応じた者により討たれた。
 
== 脚注 ==