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'''アルマリク'''(Almalik)は[[中央アジア]]、[[イリ川]]渓谷([[イリ地方]])の歴史的[[都市]]。[[モンゴル帝国]]時代の[[13世紀]]から[[14世紀]]頃にイリ川渓谷を経て[[天山山脈]]北麓を通る交易路の拠点として栄え、またイリ地方の周辺に広がる草原地帯の[[遊牧民]]たちが拠点として利用した。正確な位置は明らかではないが、現在の[[中華人民共和国|中国]][[新疆ウイグル自治区]]北西部、[[サリム湖]]の南<ref name="ibn229">バットゥータ『大旅行記』4巻、229頁</ref>、[[カザフスタン]]との国境に近い[[グルジャ市|イーニン]](クルジャ)の近辺に存在していたと考えられている<ref name="ibn229"/><ref name="matsuda">松田「アルマリク」『アジア歴史事典』1巻、120頁</ref>。
 
アルマリクの前身は、[[唐]]の史書に表れる「弓月城」と推定されている<ref name="matsuda"/>。アルマリクの名は13世紀にはじめて歴史にあらわれ、[[耶律楚材]]や[[丘長春|長春真人]]の旅行記には「阿里馬里城」、[[キリキア・アルメニア王国|アルメニア]]国王{{仮リンク|ヘトゥム1世|en|Hethum I, King of Armenia}}の旅行記には「ハルアリク(Halualekh)」と記される。この名は[[テュルク諸語|テュルク語]]で「[[リンゴ]]のなる町」を意味している<ref name="ibn229"/>。<!-- イリ川渓谷でリンゴが栽培されていたことに由来していると考えられる。 -->
 
[[13世紀]]初頭、[[カルルク|カルルク族]]の首長オザルがアルマリクを中心に勢力を形成ており[[西遼]](カラキタイ)に臣従していた<ref name="CMD97">ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、97頁</ref>。[[モンゴル帝国]]が勢力を拡大すると、[[1211年]]頃にオザルは西遼から離反して[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]に帰順するが、オザルは西遼の帝位を簒奪した[[ナイマン]]の[[クチュルク]]に殺害される。オザルの死後、チンギスの命によってオザルの子スクナーク・テギンがアルマリクの指導者の地位を継ぎ、チンギスの長子[[ジョチ]]の娘を娶った<ref name="CMD97"/>。
 
チンギスの死後、アルマリクはイリ地方一帯の遊牧地を所領([[ウルス]])とするチンギスの次男[[チャガタイ]]に与えられ<ref>バットゥータ『大旅行記』4巻、245頁</ref>チャガタイは春夏の期間をアルマリクの周辺[[イリ川]]南のクヤスで過ごし、アルマリクはスクナーク・テギンとその一族によって統治されていた<ref>C.M.ドーソ佐口透「チャガタイ・ハとその時代(下)」モンゴル帝国史東洋学報2292号収録佐口透訳注, 東洋文庫協會調査部, 平凡社, 1968194212月)、146114-115,127-129頁</ref>。[[14世紀]]初頭にいわゆる[[チャガタイ・ハン国]]が形成されるとその中心都市となった。アルマリクはチャガタイ・ハン国の中心地とされてから重要性を帯び、14世紀には東方におけるキリスト教の拠点の一つとして機能した<ref name="matsuda"/>。まもなく、チャガタイ・ハン国が東西に分裂すると東チャガタイ・ハン国に入り、クルジャを中心に[[ジュンガリア]]から[[バルハシ湖]]南岸に至る一帯は[[ペルシア語]]で「[[モグーリスタン]]」と呼ばれるようになる
 
14世紀中頃には東チャガタイ・ハン国の再建者でモグーリスタンの遊牧民たちを[[イスラム教]]に改宗させた[[トゥグルク・ティムール]]がこの地を本拠地とし、[[1362年]]に亡くなるとアルマリクに葬られた。その後も[[モグーリスタン・ハン国]]と呼ばれるトゥグルク・ティムールの後裔たちはこの地方を拠点としたが、[[15世紀]]に入るとカザフスタンの草原地帯に[[ウズベク]]や[[カザフ]]が興って圧迫を受け、モグーリスタンのハンたちは草原地帯を捨てて[[タリム盆地]]の[[オアシス]]都市に移っていった。ウズベクによる破壊を受けたアルマリクも衰亡し、イリ地方の中心都市としての機能はクルジャに移って歴史から姿を消した。
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[[Category:チャガタイ・ハン国]]
[[Category:歴史上の都市]]
[[Category:古都]]
[[Category:中央ユーラシアの歴史的地域]]