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| 死没 = [[天正]]6年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]([[1578年]][[8月20日]])
| 改名 = 山中甚次郎、亀井甚次郎、山中鹿介幸盛
| 別名 = 鹿介{{Refnest|group="注"|name="shikanosuke"|鹿介が正しい。自筆状<ref>「尼子氏家臣連署奉書/(永禄12年)10月1日/富兵部大夫宛」(『富家文書』)ほか</ref>にそのように自署している。}}、鹿之介、鹿之助、鹿助<ref group="注" name="wrong name">鹿之介、鹿之助、鹿助は間違って広まった名前である。</ref>(通称)<br />山陰の麒麟児(渾名)
| 別名 = 鹿介(通称)、山陰の麒麟児(渾名)、<br />鹿之介、鹿之助、鹿助
| 戒名 = 幸盛寺殿潤淋淨了居士<br />幸盛寺殿潤林淨了居士<br />幸盛院殿鹿山中的大居士<br />幸盛院殿大誉淨了大居士<br />秋峰億勇居士<br />潤林院殿太誉浄了大禅定門<br />幸盛院鹿山的中居士<br />忠光院信譽宗英居士
| 墓所 = 阿井の渡し、観泉寺、[[幸盛寺]]、[[本満寺]]、[[玉林院]]、[[金戒光明寺]]、徳雲寺、静観寺
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| 子 = '''[[山中幸元|幸元]]'''、[[山中幸範|幸範]]、[[吉和義兼]]室<br />養女:''[[亀井茲矩]]室''
}}
'''山中 鹿介 幸盛'''<ref>鹿介が正しい。自筆状にそのように自署している。鹿之助や鹿之介などは間違って広まった名前である((永禄12年)10月1日 富兵部大夫 宛て 尼子氏家臣連署奉書「富家文書」ほか)。</ref>(やまなか しかのすけ ゆきもり)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[山陰地方]]の[[武将]]。[[尼子氏]]の[[家臣]]。実名巷間に[[仮名 (通称)|通称]]の'''幸盛山中 鹿介'''(ゆきもりやまなか しかのすけ<ref group="注" name="shikanosuke"/>で知られる。幼名は'''甚次郎'''<ref group="注">『太閤記』では山中甚次郎(巻十九 山中鹿助伝)。『陰徳太平記』では池田甚次郎(巻第五十六 山中鹿の助最後の事)。『後太平記』では山川甚次郎(巻第四十 山中鹿之助品川狼介勝負之事)</ref>(じんじろう)。優れた武勇の持ち主で「'''山陰の麒麟児'''」の異名を取る。[[尼子十勇士]]の筆頭にして、尼子家再興のために「'''願わくば、我に七難八苦<ref>ありとあらゆる苦難のこと。七難と八苦。「七難」は7種の災難で[[経典]]により内容が異なる。『[[法華経]]』では、火難・水難・羅刹難・王難・鬼難・枷鎖難・怨賊難。『[[薬師如来|薬師経]]』では、人衆疾病難・他国侵逼難・自界叛逆難・星宿変怪難・日月薄蝕難・非時風雨難・過時不雨難。『[[仁王経]]』では、日月失度難・星宿失度難・災火難・雨水難・悪風難・亢陽難・悪賊難。「八苦」は人生上の8種の苦難のこと。生・老・病・死の4苦に愛別離(あいべつり)・怨憎会(おんぞうえ)・求不得(ぐふとく)・五陰盛(ごんじょう)を加えたもの([[広辞苑]]より)。</ref>を与えたまえ'''」と[[三日月]]に祈った[[逸話]]は有名である。
 
[[尼子十勇士]]の筆頭にして、尼子家再興のために「'''願わくば、我に七難八苦<ref group="注">ありとあらゆる苦難のこと。七難と八苦。「七難」は7種の災難で[[経典]]により内容が異なる。『[[法華経]]』では、火難・水難・羅刹難・王難・鬼難・枷鎖難・怨賊難。『[[薬師如来|薬師経]]』では、人衆疾病難・他国侵逼難・自界叛逆難・星宿変怪難・日月薄蝕難・非時風雨難・過時不雨難。『[[仁王経]]』では、日月失度難・星宿失度難・災火難・雨水難・悪風難・亢陽難・悪賊難。「八苦」は人生上の8種の苦難のこと。生・老・病・死の4苦に愛別離(あいべつり)・怨憎会(おんぞうえ)・求不得(ぐふとく)・五陰盛(ごんじょう)を加えたもの([[広辞苑]]より)。</ref>を与えたまえ'''」と[[三日月]]に祈った[[逸話]]で有名。
== 生涯 ==
 
== 生涯 ==
=== 出自・若き日 ===
幸盛の前半生は、確実な[[史料]]が残っておらず不明な点が多い。[[通説]]によれば、[[天文 (元号)|天文]]14年8月15日([[1545年]]9月20日)に[[出雲国]]富田庄(現在の[[島根県]][[安来市]][[広瀬町 (島根県)|広瀬町]])に生まれたとされる(詳しくは[[#出自の謎]]を参照。)。
 
山中氏の家系も不明な点が多い。山中家の系図はいくつか存在するが{{Refnest|group="注"|個人所蔵のものが2点<ref>『尼子盛衰人物記』p309 個人所蔵。</ref><ref>『山中鹿介幸盛-戦国ロマン広瀬シリーズ4-』p104 個人</ref>と島根県が所蔵するもの『島根縣史 六-守護地頭時代』 大正15年6月30日 島根県内務部島根縣史編纂掛 島根県など。</ref>がある}}、有力な説としては[[宇多源氏]]の流れを汲む[[佐々木氏]]([[京極氏]])の支流で、[[尼子氏]]の[[一門衆]]である。[[尼子清定]]の弟である[[山中幸久]]を祖とし、幸盛はこの幸久の4代(又は6代)後裔である。
 
山中家は尼子氏の家老<ref group="注">『佐々木文書』「尼子家分限牒」によれば中老。ただし、尼子家分限牒は江戸時代に製作され、その信憑性については諸説ある。</ref>であったが、父・[[山中満幸|満幸]]が早世していたため生活は貧しく、幸盛は母1人の手によって育てられた<ref name="intoku56">『陰徳太平記』巻第五十六「山中鹿の助最後の事」 尼子家十人の家老に列すと雖も、食地も微小に座敷の次第も末也し、然に幸盛父は幼少にして離れ、一人の母に養育せられて成長す。</ref>。幼少の頃より尼子氏に仕え、8歳のとき敵を討ち<ref name="gotaiheiki">『後太平記』巻第四十「山中鹿之助品川狼介勝負之事」 八歳にして敵を射ちしかば</ref>、10歳の頃から弓馬や軍法に執心し、13歳のとき敵の首を捕って手柄を立てた<ref name="shikanosukeden">『太閤記』巻十九「山中鹿助伝」 十歳の比より弓を習ひ、軍法を執心し、武勇の道を専とせしが、十三歳の比、手柄なる太刀打をし能首捕てけり。</ref>。
 
16歳のとき、主君・[[尼子義久]]の[[尾高城|伯耆尾高城]]攻めに随行し、因伯([[因幡国]]と[[伯耆国]]。現在の[[鳥取県]])に鳴り響く豪傑、菊池音八を[[一騎討ち]]で討ち取った<ref>『太閤記』巻十九「山中鹿助伝」 菊池音八と渡し合わせ、暫し相戦ひしが、終に菊池を討て首をさし上げたり。此菊池は因伯二州にをひて隠れなき勇者なりき。< name="shikanosukeden"/ref>。
 
幸盛は次男であったため、尼子の重臣である[[亀井氏]]の養子となるが<ref>{{Refnest|group="注"|幸盛は一時期、亀井性を名乗っていたため<ref>「'''亀井家の養子であったとされる(元亀2年3月11日 松田兵部丞宛て 亀井'''鹿介幸盛・立原源太兵衛尉久綱  尼子勝久袖判奉行人連署奉書/(元亀2年)3月11日/松田兵部丞宛」(『鴻池家旧蔵文書)ほか</ref>亀井家の養子であったとされる。}}、後に山中家に戻り当主である兄の[[山中幸高|幸高]](甚太郎)に替わって[[家督]]を継いだ。
 
=== 尼子氏の滅亡 ===
[[永禄]]5年7月3日([[1562年]]8月2日)、[[毛利氏]]の当主・[[毛利元就]]<ref>実際の毛利氏の当主、元就の長男・[[毛利隆元|隆元]]であったが、実権は元就が掌握していたとされる。</ref>は[[尼子氏]]を滅ぼすため[[出雲国]]へ進軍する<ref>「三吉隆亮書状写/永禄5年7月29日 /心東堂 て 三吉隆亮書状写「」(『閲覧録遺漏 』『浄泉寺文書」。』)</ref>。毛利氏は[[去る天文 (元号)|天文]]244年10月1日(1555年10月16日)に[[陶晴賢]]を[[厳島の戦い]]で破ると<ref>「小早川隆景感状/天文24年10月20日 /井上又右衛門 て 小早川隆景感状「」(『閥閲録11』)ほか。厳島の戦いが行われたのは、[[天文 (元号)|天文]]24年10月1日。</ref>、[[弘治 (日本)|弘治]]3年には[[大内氏]]を滅ぼし<ref>「・・・、仍内藤(内藤毛利世)被討果由、誠太慶此事候、屋形(大内義長)御事茂一途之事御整肝要候、・・・」(元書状/弘治3年4月3日 /阿曾沼少輔十郎 て 毛利隆元書状「」(『閥閲録35』)ほか。)。<br />一、長州且山之儀落去候而、内藤弾正忠(内藤隆世)頸夜前到来候、屋形(大内義長)之儀茂今明日中可有到来候、・・・」(毛利元就書状/弘治3年5月9日 /刑部大輔・兒玉若狭守 て 毛利元就書状「」(『閥閲録84」)。弘治3年4月2日に内藤隆世が、続いて4月3日に[[大内義長]]が死亡した説が有力(『新裁軍記より。。これによって[[大内氏]]は実質滅亡した。</ref>、防長2国([[周防国]]と[[長門国]])を新たに支配していた。また、永禄5年6月には[[石見国]]を勢力下に治め<ref>「毛利元就 ・同隆元連署書状写/(永禄5年)6月23日 /川尻浦齋藤源左衛門 所持 毛利元就 ・同隆元連署書状写「」(『閥閲録遺漏4-1』)</ref>、[[中国地方]]の一大勢力となっていた<ref>[[安芸国]]、[[備後国]]、[[備中国]]、[[周防国]]、[[長門国]]、[[石見国]]、[[伯耆国]]、[[美作国]]、[[出雲国]]に渡る勢力となっていた。</ref>。一方の尼子氏は、当主であった[[尼子晴久]]が永禄3年12月24日([[1561年]]1月9日)に急死したため<ref>『佐々木文書』尼子義久家臣人数帳(『佐々木文書』「佐々木文書二三七237</ref>、晴久の[[嫡男]][[尼子義久|義久]]が跡を継いでいたが、外交政策の失敗等<ref>{{Refnest|group="注"|永禄4年(1561年)[[毛利氏]]による[[石見国]]への侵攻に際し、[[室町幕府]]から毛利氏(・[[大友氏]])との和睦の斡旋を受けていた<ref>「足利久は((藤御内書/(永禄)4年4月10日 /大館伊予守・進士美作守 て 足利義藤御内書「」(『佐々木文書235』)ほか。)</ref>義久は、積極的に毛利軍と戦うことをしなかった(毛利氏は朝廷の斡旋に従わなかった)。その結果、石見の尼子方の[[国人]]は見捨てられた格好となり、滅亡又は毛利方へ味方する者が続出した。そして、この情勢を見た他国の尼子方の国人も次々と毛利方へ鞍替えした。</ref>}}もあり勢力が衰えつつあった。
 
[[毛利元就]]に率いられた毛利軍は出雲へ入国すると、尼子方の有力国人らを次々と服従させつつ陣を進めていく。そして、永禄5年12月(1563([[1563]]1月)には[[荒隈城|荒隈(洗合)]]へ本陣を構え<ref>「毛利元就書状写/(永禄5年12月) /兼重彌三郎 宛て 毛利元就書状写「(『閥録52』)ほか</ref>、尼子氏の居城・[[月山富田城]]攻めを本格化させる。
 
[[永禄]]6年8月13日([[1563(1563]]8月31日)、毛利軍は、[[尼子十旗]]の第1とされる[[白鹿城]]<ref name="jikki3">『雲陽軍実記』第三巻「富田勢出張先鋒争ひ 並びに白鹿の麓合戦、尼子方敗北の事」 尼子籏下にて 、禄の第一は白鹿、第二は三沢、第三は三刀屋、第四は赤穴、第五は牛尾、第六高瀬、第七神西、第八熊野、第九真木、第十大西なり。</ref>[[白鹿城]]へ攻撃を開始する<ref>「毛利元就書状/永禄6年8月20日 /棚守左近衛将監 て 毛利元就書状「」(『厳島野坂文書」ほか。小白鹿ほか、丸([[曲輪]]、小屋(根小屋・[[武家屋敷]])がすべて落とされ、残すところ本丸のみであることが記載されている。</ref>。この白鹿城は、[[宍道湖]]の北岸に位置し、[[日本海]]に面した[[島根半島]]と月山富田城を結ぶ要衝であり、[[補給]]路を確保する上でも重要な拠点であった。
 
同年9月21日([[1563年]]10(10月8日)、尼子氏は白鹿城を救援するため、[[尼子倫久]]を大将とした軍を派遣し、幸盛もこれに従軍する<ref>『雲陽軍実記』第三巻「富田勢出張先鋒争ひ 並びに白鹿の麓合戦、尼子方敗北の事」永禄6年9月21日。牛尾三河守は軍の備えとして9月23日に出陣した。< name="jikki3"/ref>。戦いの結果、毛利軍が勝利し尼子軍は月山富田城へ撤退した([[月山富田城の戦い#白鹿城の戦い|白鹿城の戦い]])。退却の際、軍の後陣に控えていた幸盛は、約200の兵を率いて[[殿 (軍事用語)|殿]]を担当し、追撃する[[吉川元春]]・[[小早川隆景]]の両軍を7度にわたって撃退し、敵の首を7つ討ち取った<ref>『後太平記』巻第三十六「出雲国馬潟原合戦之事」。 </ref>{{Refnest|group="注"|『中国兵乱記』では、撃退は4度、敵の首は5つ。<ref>『中国兵乱記』一の巻「毛利元就が雲州へ攻め入った事」)。</ref>}}。なお、白鹿城は同年10月中旬頃に落城している<ref>「吉川元春巻数并供米返事/永禄6年10月17日 /棚守左近衛将監 返報 吉川元春巻数并供米返事「」(『厳島野坂文書」。』)</ref> {{Refnest|group="注"|『二宮佐渡覚書』では、永禄6年10月29日([[1563年]]11月14日)に落城。<ref name="ninomiya">『二宮佐渡覚書』「出雲富田の開城」)。</ref>}}
 
永禄7年([[1564年]])、尼子軍は[[杉原盛重]]率いる毛利軍と美保関<ref group="注">『雲陽軍実記』では三保関(現在の[[美保関町]])。『陰徳太平記』では弓の浜(現在の[[弓ヶ浜]])。</ref>で戦い、幸盛もこれに参戦する<ref group="注">幸盛は第2陣に控える。『雲陽軍実記』『陰徳太平記』。</ref>。このとき、[[日本海]]側からの補給拠点である[[白鹿城]]を攻略された尼子氏は、[[中海]]方面からの補給路を確保するため[[伯耆国]]の拠点確保と勢力の挽回に努めていた。尼子軍はこの戦いには勝利するも、続く伯耆国の重要拠点の1つである[[尾高城]]の戦いで毛利軍に敗れた<ref>『雲陽軍実記』第三巻「杉原播磨守盛重と山中、立原、秋上等三保関軍のこと」<br />『陰徳太平記』巻三十七「杉の原盛重伯州泉山の城に入る 付 弓の浜合戦之事」及び「泉山合戦之事」</ref>。以後、伯耆国は毛利軍によって制圧されていくこととなる。こうして尼子軍は各地で敗れつつ補給の道を絶たれ、尼子氏の居城・月山富田城は完全に孤立化していくのである。
 
永禄8年4月([[1565年]]5月)<ref>「乃美隆興書状写/永禄8年6月14日 /村山四郎大夫 て 乃美隆興書状写「」(『毛利氏四代実録考証論断』)ほか。</ref>、毛利軍は、月山富田城の北西3kmにある星上山(現在の[[島根県]][[松江市]]八雲町) に本陣を構えると<ref name="moriwaki">『森脇覚書』「雲州御弓矢最初之事」</ref>{{Refnest|group="注"|『二宮佐渡覚書』では星上山でなく京羅木山と記載。</ref name="ninomiya"/>}}、城下の麦を刈り取って<ref>「毛利元就書状写/永禄8年5月2日 /児玉若狭入道 て 毛利元就書状写「」(『閲覧録84』)ほか</ref>月山富田城へ攻撃を開始する。。
 
同年4月17日(1565年5(5月16日)、毛利軍は月山富田城へ総攻撃を行う<ref name="moriwaki"/><ref group="注">『森脇覚書』「雲州御弓矢最初之事」。『雲陽軍実記』では、4月18日。4月17日は凶日なので、1日伸ばした18日とする。</ref>([[月山富田城の戦い#第二次月山富田城の戦い|第二次月山富田城の戦い]])。
幸盛は塩谷口<ref group="注">月山富田城への3つの進入口の1つ。塩谷口は南側に位置する。他は、北側の菅谷口(すがたにぐち)と西側の御子守口(おこもりぐち)。</ref>(しおたにぐち)で[[吉川元春]]らの軍と戦い、これを撃退している<ref>『雲陽軍実記』第三巻「富田惣攻め三所合戦 並びに毛利勢、荒隈帰陣の事」<br />『陰徳太平記』巻三十八「富田城下三箇所合戦之事」</ref>。また、この戦いで幸盛は、高野監物を一騎討ちで討ち取っている<ref>『太閤記』巻十九「山中鹿助伝」 甚次郎は衆を離れ進み出、高野監物と鑓を合せ、終に高野を討てけり。(永禄7年の春と記す。年の間違いか又は違う戦いか)< name="shikanosukeden"/ref>。
 
永禄8年4月28日(1565年5(5月27日)、毛利軍は城を落とすことができず敗れ<ref>「毛利元就・同輝元連署感状写/永禄8年5月9日 /井上又右衛門尉 て 毛利元就・同輝元連署感状写「」(『閲覧録11』)ほか。</ref>、月山富田城から約25km離れた[[荒隈城]]まで撤退した<ref>『森脇覚書』「雲州御弓矢最初之事」。永禄8年5月3日に荒隈城へ入った。< name="moriwaki"/ref>。
 
同年9月、毛利軍は再び月山富田城を攻めた。この戦いで幸盛は[[品川将員]]<ref group="注">品川 大膳(しながわ だいぜん)あるいは棫木 狼之介(たらぎ おおかみのすけ)ともいう。 </ref>を一騎討ちで討ち取っている([[山中幸盛・品川将員の一騎討ち]])。また同月、幸盛は、白潟(現在の[[島根県]][[松江市]])に滞在していた小河内幸綱ら率いる毛利軍を夜討ちし、多数の兵を討ち取った<ref name="moriwaki"/>『森脇覚書』「雲州御弓矢最初之事」。{{Refnest|group="注"|『陰徳太平記』では、船陰に隠れていた幸綱に、幸盛は膝口をしたたかに切られ負傷している。<ref>『陰徳太平記』巻三十九「富田所々付け城 並 山中鹿助夜討事」)。</ref>}}
 
永禄9年5月24日([[1566年]]6月11日)、毛利軍は再度三たび月山富田城へ総攻撃を行う。しかし、城を落とすことが出来なった<ref>「平賀広相感状写/永禄9年5月28日 /原田長左衛門尉 て 平賀広相感状写「」(『平賀共昌集録旧記』)ほか。毛利軍が、月山富田城の「七曲」まで攻めていたことが分かる。</ref>。
 
永禄9年11月21日([[1567年]]1月1日)、城内の兵糧が欠乏し将兵の逃亡者も相次いだため<ref>「毛利元就書状写/永禄9年6月28日 /児玉若狭入道 て 毛利元就書状写「」(『閥閲禄84」。近頃(永禄9年6月頃、尼子に従う者が50人100人と逃げ出してきていると記している。</ref>、これ以上戦うことが出来ないと判断した[[尼子義久]]は、毛利軍に降伏を申し出る<ref>永禄9年11月21日 毛利元就他3名連著血判状写/永禄9年11月21日」(『佐々木家旧蔵文書」「』『閥覧録29」。』)</ref>。そして11月28日(1567年1(1月8日)、義久は城を明け渡し<ref>{{Refnest|group="注"|開城時、義久らに従う尼子家家臣は、わずか134名しかいなかった。<ref>佐々木文書237」永禄9年11月28日下城、相届供仕衆中(『佐々木文書237』</ref>}}、ここに戦国大名尼子氏は一時的に滅びることとなる<ref>「小早川隆景書状/永禄9年11月28日 /冷泉四郎 御返報 小早川隆景書状「」(『冷泉家文書」「』『閥閲禄102」。』)</ref>。義久ら尼子3兄弟<ref>[[尼子義久|尼子三郎四郎義久]]、[[尼子秀久|尼子八郎四郎秀久]]、[[尼子倫久|尼子九郎四郎倫久]]の3人。</ref>は、一部の従者<ref>{{Refnest|group="注"|
義久へは、宇山右京亮・立原備前守・本田豊前守・同与二郎・大西十兵へ(大西十兵衛)・牧彦右衛門・力石兵庫・津野森四郎二郎・福頼四郎右衛門・本田太郎左衛門・真野甚四郎・高尾惣五郎・正覚寺(大塚助五郎)の21名。<br />倫久へは、多賀勘兵へ(多賀勘兵衛・佐藤助三郎・重蔵坊・山崎惣左衛門の5名。<br />秀久へは、松浦治部丞・松井助右衛門・他9名(宇山被官・矢田五郎左衛門・作野助四郎・立原被官・河上助四郎・小者之聟・本田被官・広江彦五郎・中間源右衛門)。<ref>『二宮佐渡覚書』「尼子三兄弟御供の衆」)。</ref>}}と共に円明寺<ref group="注">[[広島県]][[安芸高田市]][[向原町]]長田にあった。現在は屋敷跡が残る。</ref>へ連行され幽閉されることとなった<ref>『二宮佐渡覚書』「出雲富田の開城」 永禄9年12月14日に円明寺に到着した。< name="ninomiya"/ref>。幸盛は随従を願い出たが許されず、[[出雲大社]]で主君と別れた<ref name="ninomiya"/>『二宮佐渡覚書』「出雲富田の開城」。『森脇覚書』「雲州御弓矢最初之事」。<ref name="moriwaki"/ref>。その後、幸盛は尼子家を再興するため尽力することとなる。
 
=== 尼子再興運動 ===
幸盛の尼子再興運動は、概ね3回に分けて見ることができる。
{{-}}
 
==== 第一尼子再興運動 ====
[[File:ひとよしさん.JPG|250px|thumb|ひとよしさん([[島根県]][[松江市]]八雲地域)。幸盛が毛利との戦いの時、腰かけ休憩したとされる岩。幸盛の手の跡が残っていると伝えられる。]]
 
尼子氏滅亡後、幸盛は[[浪人|牢人]]となる。その後、永禄9年~同11年の間([[1566年]]~[[1568年]])の幸盛の足取りは定かでない。諸説によれば、[[有馬温泉]]で傷を癒した<ref name="taikoki19-2">『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有事」。</ref>後に順礼の姿をして東国へ赴き、[[武田氏]]([[武田信玄]])・[[長尾氏]]([[上杉謙信]])・[[後北条氏|北条氏]]([[北条氏康]])などの軍法をうかがい、[[越前国]]の[[朝倉氏]]の家風を尋ね入り<ref name="intoku43">『陰徳太平記』巻第四十三「尼子勝久雲州入 付 松永霜台事」</ref>、その後、[[京都|京]]に上ったとされる<ref name="ninomiya"/>。
* [[永禄]]11年([[1568年]]・24歳) - [[元亀]]2年([[1571年]]・27歳)
 
永禄11年(1568年)、幸盛は[[立原久綱]]ら尼子諸牢人とともに、京都の[[東福寺]]で僧をしていた[[尼子誠久]]の遺児・[[尼子勝久|勝久]]を[[還俗]]させると<ref name="katsura">『桂岌圓覚書』</ref>、各地の尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機会をうかがった。
[[尼子氏]]滅亡後、幸盛は[[浪人|牢人]]となる。その後、[[永禄]]9年~永禄11年間([[1566年]]~[[1568年]])の幸盛の足取りは定かでない。諸説によれば、[[有馬温泉]]で傷を癒した<ref>『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有事」。</ref>後に順礼の姿をして東国へ赴き、[[武田氏]]([[武田信玄]])・[[長尾氏]]([[上杉謙信]])・[[後北条氏|北条氏]]([[北条氏康]])などの軍法をうかがい、[[越前国|越前]]の[[朝倉氏]]の[[家風]]を尋ね入り<ref>『陰徳太平記』巻第四十三「尼子勝久雲州入 付 松永霜台事」。</ref>、その後、[[京都|京]]に上ったとされる<ref>『二宮佐渡覚書』「出雲富田の開城」。その他の軍記資料でも京に上ったとする。</ref>。
 
永禄12年4月([[1569年]]5月)、毛利元就が[[大友氏]]を攻撃するため北九州へ軍を派遣すると<ref>「毛利輝元書状/(永禄12年)4月28日/赤名右京亮宛」(『閥閲録37』)</ref>、挙兵の機会をうかがっていた幸盛は、出雲国へ侵攻を開始する<ref>「吉川元春起請文/元亀2年4月5日」(『三沢文書』)</ref>。
[[永禄]]11年([[1568年]])、幸盛は[[立原久綱]]ら尼子諸牢人とともに、京都の[[東福寺]]で[[僧]]をしていた[[尼子誠久]]の遺児・[[尼子勝久]]を[[還俗]]させると<ref>『桂岌圓覚書』 尼子勝久、京都東福寺出家にて居られ候つるを人躰に取立て。</ref>、各地の尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機会をうかがった。
 
このとき、幸盛ら尼子再興軍を支援していたのは[[山名祐豊]]であった{{Refnest|group="注"|『陰徳太平記』によれば、但馬国の垣屋播磨守を頼ったとする。<ref name="intoku43"/>}}。[[山名氏]]の総帥として、長年にわたって尼子氏と敵対してきた祐豊であったが、領国であった[[備後国|備後]]・伯耆・因幡を毛利氏によって制圧されてきており、勢力回復を図るにあたって手を結んだと考えられえる<ref>『西国の戦国合戦-戦争の日本史-』P180(山本浩樹 著 吉川弘文館2007年)。</ref>。もっとも、その後に毛利氏から要請を受けた[[織田信長]]の軍によって領内を攻められ{{Refnest|group="注"|当時、毛利氏と[[織田氏]]は友好的な関係であった。毛利氏は、京都に送り込んだ使僧の[[朝山日乗]]を通じて信長に合力を要請。「雲伯因三ヶ国合力」として、織田軍の木下藤吉([[豊臣秀吉|木下秀吉]])、坂井右近(坂井政尚)が2万の兵で[[但馬国]]に攻め込み、生野銀山、子盗、垣屋などの城を攻略している。また、「備作両国御合力」として、木下助右衛門尉、同左衛門尉(木下祐久)らが2万の兵で[[播磨国]]に攻め込み、増井、寺蔵院などの城を攻略。その後、[[備前国]]に進んで[[天神山城]]に攻め込む予定であることが記されている。<ref>「日乗朝山書状安/(永禄12年)8月19日/毛利元就ほか13名宛」(『益田家文書28』)</ref>}}、支援はままならなかったようである。
[[永禄]]12年4月([[1569年]]5月)、[[毛利氏]]の当主・[[毛利元就]]が[[大友氏]]を攻撃するため[[北]][[九州]]へ軍を派遣すると<ref>(永禄12年)4月28日 赤名右京亮 宛て 毛利輝元書状「閥閲録37」。元就が出陣したのは4月26日。</ref>、挙兵の機会をうかがっていた幸盛は、[[出雲国]]へ侵攻を開始する<ref>元亀2年4月5日 吉川元春起請文「三沢文書」。</ref>。
 
6月23日(8月6日)<ref name="intoku43"/>、幸盛らは[[丹後国]]もしくは[[但馬国]]から数百艘の船に乗って海を渡り島根半島に上陸すると<ref>「尼子氏家臣連署奉書/永禄12年9月15日/日御碕検校宛」(『日御碕神社文書』)</ref><ref group="注">同日、同人に宛てた尼子勝久の寄進状には「但馬国」と記載されており、他の資料の関係から「但州(但馬国)」の誤りではないかとの指摘もある。</ref>{{Refnest|group="注"|『雲陽軍実記』『陰徳太平記』によれば、但馬国から海賊・奈佐日本之介の手を借りて隠岐国へ渡り、隠岐の国人・隠岐為清の協力を得て島根半島に上陸したとする。<ref name="intoku43"/><ref name="jikki4">『雲陽軍実記』第四巻「尼子勝久雲州へ攻め入り、並びに旧交馳け集まり敵城を攻め落とす事」</ref>}}、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠する<ref>「尼子勝久寄進状//永禄12年9月15日/日御碕検校宛」(『日御碕神社文書』)</ref>。幸盛らがここで再興の激を飛ばすと、国内に潜伏していた旧臣らが続々と集結し、5日の内に3,000余りの軍勢になったという<ref name="jikki4"/><ref name="intoku43"/>。そして同月下旬、幸盛ら尼子再興軍は、多賀元竜が籠もる[[新山城]](真山城)を攻略して本拠とすると<ref>『森脇覚書』「九州御陣之事」。</ref>、[[山陰地方]]の各地で合戦を繰り広げつつ勢力を拡大していった。
このとき、幸盛ら尼子再興軍を支援していたのは[[山名祐豊]]であった<ref>『陰徳太平記』によれば、但馬国の垣屋播磨守を頼ったとする(『陰徳太平記』巻第四十三「尼子勝久雲州入 付 松永霜台事」)。</ref>。[[山名氏|山名]][[一門]]の[[総帥]]として、長年にわたって尼子氏と敵対してきた祐豊であったが、領国であった[[備後国|備後]]・[[伯耆国|伯耆]]・[[因幡国]]を[[毛利氏]]によって制圧されてきており、勢力回復を図るにあたって手を結んだと考えられえる<ref>『西国の戦国合戦-戦争の日本史-』P180(山本浩樹 著 吉川弘文館2007年)。</ref>。もっとも、その後、毛利氏から要請を受けた[[織田信長]]の軍によって領内を攻められ<ref>(永禄12年)8月19日 毛利元就ほか13名 宛て 日乗朝山書状安「益田家文書二八」。当時、[[毛利氏]]と[[織田氏]]は友好的な関係であった。毛利氏は、京都に送り込んだ使僧の朝山日乗を通じて信長に合力を要請。「雲伯因三ヶ国合力」として、織田軍の木下藤吉([[豊臣秀吉|木下秀吉]])、坂井右近(坂井政尚)が2万の兵で[[但馬国|但馬]]に攻め込み、生野銀山、子盗、垣屋などの城を攻略している。また、「備作両国御合力」として、木下助右衛門尉、同左衛門尉(木下祐久)らが2万の兵で[[播磨国|播磨]]に攻め込み、増井、寺蔵院などの城を攻略。その後、[[備前国|備前]]に進んで[[天神山城]]に攻め込む予定であることが記されている。</ref>、支援はままならなかったようである。
 
7月中旬<ref>「毛利元就書状/永禄12年7月19日/野村信濃入道宛」(『閥閲録123』)ほか</ref>、幸盛は、かつての尼子氏の居城・月山富田城の攻略に取りかかる([[月山富田城の戦い#尼子再興軍による包囲|尼子再興軍による月山富田城の戦い]])。この戦いは、力攻めによる攻略とはならなかったものの、城に籠もる毛利軍の兵糧は欠乏しつつあり<ref name="katsura"/>、また、城内より投降者がでる<ref>「天野隆重書状/永禄12年9月27日/加儀太郎右衛門尉宛」(『閥閲録160』)ほか</ref>など尼子方が優勢であった。
[[永禄]]12年6月23日([[1569年]]8月6日)<ref>『陰徳太平記』巻第四十三「尼子勝久雲州入 付 松永霜台事」。</ref>、幸盛は[[丹後国|丹後]]・[[但馬国]]から数百艘の船に乗って海を渡り[[島根半島]]に上陸すると<ref>永禄12年9月15日 日御碕検校 宛て 尼子氏家臣連署奉書「日御碕神社文書」。「丹州(丹後国)」から船数百艘に乗って島根半島に上陸したことなどが記載されている。同日、同人に宛てた尼子勝久の寄進状には「但馬国」と記載されており、他の資料の関係から「但州(但馬国)」の誤りではないかとの指摘もある。</ref><ref>『雲陽軍実記』『陰徳太平記』によれば、但馬国から海賊・奈佐日本之介の手を借りて隠岐国へ渡り、隠岐の国人・隠岐為清の協力を得て島根半島に上陸したとする。(『陰徳太平記』巻第四十三「尼子勝久雲州入 付 松永霜台事」)。(『雲陽軍実記』第四巻「尼子勝久雲州へ攻め入り、並びに旧交馳け集まり敵城を攻め落とす事」)。</ref>、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠する<ref>永禄12年9月15日 日御碕検校 宛て 尼子勝久寄進状「日御碕神社文書」。「但馬国」から島根半島に上陸し、忠山に入ったことが記載されている。</ref>。幸盛らがここで再興の激を飛ばすと、国内に潜伏していた旧臣らが続々と集結し、5日の内に3000余りの軍勢になったという<ref>『雲陽軍実記』第四巻「尼子勝久雲州へ攻め入り、並びに旧交馳け集まり敵城を攻め落とす事」。『陰徳太平記』巻第四十三「尼子勝久雲州入 付 松永霜台事」。</ref>。そして同月下旬、幸盛ら尼子再興軍は、多賀元竜が籠もる[[新山城]](真山城)を攻略して居城とすると<ref>『森脇覚書』「九州御陣之事」。</ref>、[[山陰地方]]の各地で合戦を繰り広げつつ勢力を拡大していった。
 
しかし、石見国で活動していた尼子再興軍が、毛利軍に攻められ危険な状態となると、幸盛は、城攻めを一旦中止して同軍の救援に向う<ref>『雲陽軍実記」第四巻「所々尼子方蜂起 並びに富田合戦の事」</ref>。
[[永禄]]12年7月中旬<ref>永禄12年7月19日 野村信濃入道 宛て 毛利元就書状「閥閲録123」ほか。</ref>、幸盛は、かつての[[尼子氏]]の居城・[[月山富田城]]の攻略に取りかかる([[月山富田城の戦い#尼子再興軍による包囲|尼子再興軍による月山富田城の戦い]])。この戦いは、力攻めによる攻略とはならなかったものの、城に籠もる毛利軍の兵糧は欠乏しつつあり<ref>『桂岌圓覚書』冨田の城に天野隆重籠り居られ、兵粮これ無く候て難儀に及び候。</ref>、また、城内より投降者がでる<ref>永禄12年9月27日 加儀太郎右衛門尉 宛て 天野隆重書状「閥閲録160」ほか。月山富田城内の馬来、河本、湯原氏らが尼子軍に投降したことが記されている。</ref>など尼子方が優勢であった。
救援に駆けつけた幸盛は、この石見の毛利軍を原手郡( 現在の[[島根県]][[出雲市]]斐川地域の[[平野]]部あたり )で撃破すると([[原手合戦]])、その後、出雲国内において16の城を攻略<ref name="jikki4-2">『雲陽軍実記』第四巻「秋上伊織介富田敗北 並びに山中鹿之助異見の事」</ref>{{Refnest|group="注"|『陰徳太平記』では、15城。<ref>『陰徳太平記』巻四十三「諸国毛利家に背く 付 立花の城明け渡す事」</ref>}}し、その勢力を6,000余りにまで拡大させた<ref name="jikki4-2"/>。
 
また、元就が尼子再興軍を討伐するため、九州より帰陣させた[[米原綱寛]]{{Refnest|group="注"|綱寛は、以前より尼子方から誘いを受けており<ref>「尼子勝久書状/永禄12年8月12日/米原平内兵衛尉宛」(『松原家文書』)</ref>、大友宗麟の勧めもあって<ref>「大友宗麟書状/永禄12年5月17日/米原平内兵衛尉宛」(『松原家文書』)</ref>尼子方へ寝返った。}}、[[三刀屋久扶]]などの出雲国の有力国人を相次いで味方につけると{{Refnest|group="注"|毛利方についていた[[三沢為清]]、三刀屋久祐、高瀬備前守、米原綱寛が、幸盛の誘いにより尼子方についた。<ref>『太閤記』巻十九「元就群難之事」</ref>}}、出雲国の一円を支配するまでになった<ref>「天野隆重書状/永禄12年7月25日/新藤就勝宛」(『竹矢家文書』)</ref><ref name="katsura"/>。
しかし、同じ頃、[[石見国]]で活動していた尼子再興軍が、毛利軍に攻められ危険な状態となると、幸盛は、城攻めを一旦中止して同軍の救援に向う<ref>『雲陽軍実記」第四巻「所々尼子方蜂起 並びに富田合戦の事」。</ref>。
 
さらに、伯耆国においても尾高城を始め、中央の[[八橋城]]、因幡国との境にある[[岩倉城 (伯耆国)|岩倉城]]など、多くの主要な城を攻略<ref>「吉川元春書状写/永禄13年3月3日/湯原平次宛」(『閥閲録115』)</ref>。謀略を用いて末吉城の[[神西元通]]を寝返らせたのをはじめ<ref name="jikki5-2">『雲陽軍実記』第五巻「神西三郎左衛門再び尼子方一味の事」</ref>、[[日野郡]]一帯を支配する[[日野衆]]を味方につける<ref>「某興幸感状/永禄12年7月27日」「某興幸感状/永禄12年9月10日」(『米井家文書』)</ref><ref group="注">以後、日野衆は、尼子再興軍が上月城の戦いで滅ぶまで、一貫して支え続けていく。</ref>など、伯耆国全土にも勢力を拡大していった。その他、因幡・[[備後国|備後]]・[[備中国|備中]]・[[美作国|美作]]においても勢力を拡張し、戦いを繰り広げていたことが分かっている{{Refnest|group="注"|毛利方の山田重直が、尼子方の因幡国の荒神山城(現在の[[鳥取市]][[鹿野町 (鳥取県)|鹿野町]]河内)を攻撃している。<ref>「吉川元春書状写/元亀2年5月15日/山田出雲守宛」(『山田家古文書』)</ref>}}{{Refnest|group="注"|永禄13年3月~元亀2年5月にかけて、尼子方の日野衆と毛利方の宮氏が備中・備後の国境付近で戦っていた。<ref>「日野土佐守秀清・進玄蕃充允幸経連署書状/永禄13年3月14日/進平次郎宛」(『閥閲録130』)</ref>「某興幸感状/永禄13年4月4日」「某興幸感状/元亀2年3月19日」「尼子勝久感状/元亀2年5月9日/原又太郎宛」(『米井家文書』)</ref>}}{{Refnest|group="注"|雲州牢人(尼子再興軍)が、美作国の[[勝山城 (美作国)|高田城]]を攻めた。<ref>「香川美作守光景・蔵田与三右衛門尉元貞連署起請文写/永禄(1)2年7月21日/足立十兵衛尉宛」(『香川家文書』ほか)</ref>}}。
救援に駆けつけた幸盛は、この石見の毛利軍を原手郡( 現在の[[島根県]][[出雲市]]斐川地域の[[平野]]部あたり )で撃破すると([[原手合戦]])、その後、出雲国内において16の城を攻略<ref>『雲陽軍実記』第四巻「秋上伊織介富田敗北 並びに山中鹿之助異見の事」。『陰徳太平記』では、15城(『陰徳太平記』巻四十三「諸国毛利家に背く 付 立花の城明け渡す事」)。</ref>。その勢力を6,000余りにまで拡大させた<ref>『雲陽軍実記』第四巻「秋上伊織介富田敗北 並びに山中鹿之助異見の事」。『陰徳太平記』でも同数(『陰徳太平記』巻四十三「諸国毛利家に背く 付 立花の城明け渡す事」)。</ref>。
 
加えて10月11日(11月19日)、[[大内輝弘]]が大内家再興を目指して周防国[[山口市|山口]]へ攻め込み<ref name="yoshihiro">「吉弘左近太夫鑑理書状写/(永禄12年)10月28日/立花勤番・各御中御陣所宛」(『無尽集』)</ref>、築山館跡を占領する事態が発生する<ref>「小早川隆景書状/(永禄12年)11月18日/野村信濃入道宛」(『閥閲録123』)</ref>。
また、[[毛利元就]]が尼子再興軍を討伐するため、九州より帰陣させた[[米原綱寛]]<ref>永禄12年8月12日 米原平内兵衛尉 宛て 尼子勝久書状「松原家文書」。綱寛は、以前より尼子方から誘いを受けており、大友宗麟の勧めもあって(永禄12年5月17日 米原平内兵衛尉 宛て 大友宗麟書状「松原家文書」)尼子方へ寝返った。</ref>、[[三刀屋久祐]]などの出雲国の有力国人を相次いで味方につけると<ref>『太閤記』巻十九「元就群難之事」。毛利方についていた[[三沢為清]]、三刀屋久祐、高瀬備前守、米原綱寛が、幸盛の誘いにより尼子方についたことが記されている。後に、三沢為清と三刀屋久祐は毛利につく。</ref>、出雲国の一円を支配するまでになった<ref>永禄12年7月25日 新藤就勝 宛て 天野隆重書状「竹矢家文書」。出雲国内の在々所々の者が、残すことなく雲伯諸牢人(尼子再興軍)に従ったことが記されている。</ref><ref>『桂岌圓覚書』山中鹿之介、其外雲伯諸牢人、雲州へ乱入り仕り候。雲州一国存分に任せ候。</ref>。
10月15日(11月23日)、相次ぐ領内の反乱により支配体制の危機を感じた元就は、反乱軍の鎮圧を優先させるため、九州から軍を撤収させることを決定する<ref>「小早川隆景書状/元亀4年10月2日/井上又右衛門尉宛」(『閥閲録11の2』)</ref>。
10月18日(11月26日)、吉川元春・小早川隆景ら毛利軍は、九州から陣を撤収して長府に帰着すると<ref name="yoshihiro"/>、10月25日頃に大内家再興軍の反乱を鎮圧する<ref>「毛利輝元書状/永禄12年10月25日/舟越淡路守宛](『閥閲録159』)</ref>。輝弘は富海で自刃し<ref>「毛利秀就加冠状/[[寛永]]12年1月11日/新屋山三郎宛」(『閥閲録85』)</ref>、大内家再興の戦いは僅か半月足らずで終結した([[大内輝弘の乱]])。反乱を鎮圧した毛利軍は、12月23日に長府にあった陣を引き払い、居城である[[吉田郡山城]]へ帰還している<ref name="katsura"/>。
 
永禄13年1月6日([[1570年]]2月10日)、[[毛利輝元]]、吉川元春、小早川隆景らは、尼子再興軍を鎮圧するため吉田郡山城より大軍を率い出陣する<ref>「吉川元春自筆書状/(永禄13年)1月5日/毛利輝元宛」(『毛利家文書』)</ref>。毛利軍は北上して出雲国へ入国すると、尼子方の諸城を次々と攻略しながら月山富田城へ陣を進めていった。
さらに、[[伯耆国]]においても[[尾高城]]を始め、中央の[[八橋城]]、[[因幡国]]との境にある[[岩倉城 (伯耆国)|岩倉城]]など、多くの主要な城を攻略<ref>永禄13年3月3日 湯原平次 宛て 吉川元春書状写「閥閲録115」。永禄13年3月頃に、八橋城、岩倉城といった伯耆の中部~東部にかけての毛利の城が尼子再興軍の攻撃を受けて落城の危機に追い込まれていることが分かる。ほどなく両城は落城。</ref>。謀略を用いて末吉城の[[神西元通]]を寝返らせたのをはじめ<ref>『雲陽軍実記』第五巻「神西三郎左衛門再び尼子方一味の事」ほか。</ref>、[[日野郡]]一帯を支配する[[日野衆]]を味方につける<ref>永禄12年7月27日 某興幸感状「米井家文書」。永禄12年9月10日 某興幸感状「米井家文書」。日野山名・日野・進・原氏などの日野衆が、毛利氏を離反して尼子再興軍を支援。以後、日野衆は、尼子再興軍が上月城の戦いで滅ぶまで、一貫して支え続けていく。</ref>など、伯耆国全土にも勢力を拡大していった。その他、[[因幡国|因幡]]<ref>元亀2年5月15日 山田出雲守 宛て 吉川元春書状写「山田家古文書」。毛利方の山田重直が、尼子方の因幡国の荒神山城(現在の[[鳥取市]][[鹿野町 (鳥取県)|鹿野町]]河内)を攻撃したことが記されている。</ref>・[[備後国|備後]]・[[備中国|備中]]<ref>永禄13年3月14日 進平次郎 宛て 日野土佐守秀清・進玄蕃充允幸経 連署書状「閥閲録130」。永禄13年4月4日 某興幸 感状「米井家文書」。元亀2年3月19日 某興幸 感状「米井家文書」。元亀2年5月9日 原又太郎 宛て 尼子勝久感状「米井家文書」。永禄13年3月~元亀2年5月にかけて、尼子方の日野衆と毛利方の宮氏が備中・備後の国境付近で戦っていたことが分かる。</ref>・[[美作国]]<ref>永禄(1)2年7月21日 足立十兵衛尉 宛て 香川美作守光景・蔵田与三右衛門尉元貞連署起請文写「香川家文書」ほか。雲州牢人(尼子再興軍)が、美作国の[[勝山城 (美作国)|高田城]]を攻めたことが記されている。</ref>においても勢力を拡張し、戦いを繰り広げていたことが分かっている。
一方の尼子再興軍は、先の[[原手合戦|原手郡の戦い]]や隠岐為清の反乱([[美保関の合戦]])などによって時間をとられ、出雲国の拠点である月山富田城を攻略することができないでいた。そのため尼子再興軍は、毛利軍の進軍を防ぐため布部山(現在の[[島根県]][[安来市]]広瀬町布部)に陣を張り決戦に備える{{Refnest|group="注"|1月28日には多久和城([[島根県]][[雲南市]]三刀屋町多久和)を毛利軍が攻め落としており<ref>「毛利元秋書状写/(永禄)13年2月1日/南湘院・南方宮内少輔宛」(『閥閲録47』ほか)</ref>この布部山の地を抜けると月山富田城はすぐそこである。}}。
 
2月14日(3月20日)<ref>「毛利元就書状写/(永禄13年)2月18日/赤名右京亮宛」(『閥閲録37』ほか)</ref>、尼子再興軍は、布部山で毛利軍と戦い敗北する([[布部山の戦い]])。幸盛は、味方が敗走するなかで最後まで殿として残り、軍の崩壊を防いだ後に居城の新山城へ帰還している<ref>『雲陽軍実記』第五巻「毛利大勢攻め上り多久和城明渡し 並びに布部大合戦の事」</ref>。
加えて[[永禄]]12年10月11日([[1569年]]11月19日)、[[大内輝弘]]が[[大内氏|大内家]]再興を目指して[[周防国]]へ攻め込み<ref>(永禄12年)10月28日 立花勤番 各御中御陣所 宛て 吉弘左近太夫鑑理書状写「無尽集」。大内輝弘が海を渡って秋穂(現在の[[山口県]][[山口市]]秋穂)に上陸し、山口に攻め込んだことが記載されている。</ref>、築山館跡を占領する事態が発生する<ref>(永禄12年)11月18日 野村信濃入道 宛て 小早川隆景書状「閥閲録123」。大内輝弘が山口の築山に籠もったことが記載されている。</ref>。
戦いに勝利した毛利軍は、翌2月15日に月山富田城に入城し<ref name="katsura"/>、尼子再興軍の包囲から城を開放する。一方の尼子再興軍は、この戦いに敗れたことにより、以後衰亡していくこととなる。
 
6月、布部山の敗戦により出雲における尼子再興軍の勢力は、新山城と[[高瀬城]]の2城となるまで追いつめられていた<ref>「吉川元春書状写/(元亀元年)6月8日/堀立壱岐守宛」(『堀立家証文写』)</ref>。7月~8月には、両城下で毛利軍による麦薙ぎが行われる<ref>「小早川隆景書状/(元亀元年)7月29日/棚守左近衛将監宛」(『切り紙、厳島野坂文書』)<br />「毛利元就書状写/(元亀元年)8月26日/乃美兵部丞宛」(『閥閲録11』ほか)</ref>など危険な状態となるが、9月5日(10月4日)、[[安芸国]]で元就が重病におちいり、吉川元春を残して毛利輝元・小早川隆景らの軍が国許へ帰還する<ref>「毛利輝元・小早川隆景連署書状写/(元亀元年)9月5日/渡辺左衛門太夫ほか3名宛」(『閥閲録55』)</ref>と状況が一変する。山陰地方の毛利軍が手薄になったことにより、幸盛ら尼子再興軍は再びその勢力を盛り返した。
こうして[[中国地方]]は再び戦火につつまれ、騒乱の地となったのである。
 
同月15日([[1569年]]11月23日)、相次ぐ領内の反乱により支配体制の危機を感じた毛利元就は、反乱軍の鎮圧を優先させるため、九州から軍を撤収させることを決定する<ref>元亀4年10月2日 井上又右衛門尉 宛て 小早川隆景書状「閥閲録11の2」。</ref>。
 
同月18日([[1569年]]11月26日)、[[吉川元春]]・[[小早川隆景]]ら毛利軍は、九州から陣を撤収して長府に帰着すると<ref>(永禄12年)10月28日 立花勤番 各御中御陣所 宛て 吉弘左近太夫鑑理書状写「無尽集」。</ref>、同月25日頃に大内家再興軍の反乱を鎮圧する<ref>永禄12年10月25日 舟越淡路守 宛て 毛利輝元書状「閥閲録159」。10月24日には周防の白松北南・岐波・床波(いずれも[[山口県]][[宇部市]])の軍を討ち果たし、今日(25日)には長門の有穂(秋穂)の軍を掃討するだろうと記されている。</ref>。輝弘は富海で自刃し<ref>[[寛永]]12年1月11日 新屋山三郎 宛て 毛利秀就加冠状 「閥閲録85」。永禄12年10月25日に、大内輝弘が防州富海の茶臼山で切腹したことが記されている。</ref>、大内家再興の戦いは僅か半月足らずで終結するのである([[大内輝弘の乱]])。反乱を鎮圧した毛利軍は、同年12月23日に長府にあった陣を引き払い、居城である吉田郡山城へ帰還している<ref>『桂岌圓覚書』元就様、輝元様、霜月廿三日長府を御立ち成され、吉田へ御帰陣成され、御両殿様諸勢残り無く御打納め候。</ref>。
 
[[永禄]]13年1月6日([[1570年]]2月10日)、[[毛利輝元]]、吉川元春、小早川隆景らは、尼子再興軍を鎮圧するため居城・吉田郡山城より大軍を率い出陣する<ref>(永禄13年)1月5日 毛利輝元 宛て 吉川元春自筆書状「毛利家文書」。</ref>。毛利軍は北上して出雲国へ入国すると、尼子方の諸城を次々と攻略しながら[[月山富田城]]へ陣を進めていった。
 
一方の尼子再興軍は、先の[[原手合戦|原手郡の戦い]]や隠岐為清の反乱([[美保関の合戦]])などによって時間をとられ、[[出雲国]]の拠点である月山富田城を攻略することができないでいた。そのため、幸盛ら尼子再興軍は、毛利軍の進軍を防ぐため布部山(現在の[[島根県]][[安来市]]広瀬町布部)に陣を張り決戦に備える<ref>1月28日には多久和城([[島根県]][[雲南市]]三刀屋町多久和)を毛利軍が攻め落としており((永禄)13年2月1日 南湘院 南方宮内少輔 宛て 毛利元秋書状写「閥閲録47」ほか)、この布部山の地を抜けると月山富田城はすぐそこである。</ref>。
 
同年2月14日([[1570年]]3月20日)<ref>(永禄13年)2月18日 赤名右京亮 宛て 毛利元就書状写「閥閲録37」ほか。</ref>、幸盛ら尼子再興軍は、この布部山の地で毛利軍と戦い敗北する([[布部山の戦い]])。幸盛は、味方が敗走するなかで最後まで[[殿]]として残り、軍の崩壊を防いだ後に居城の[[新山城]]へ帰還している<ref>『雲陽軍実記』第五巻「毛利大勢攻め上り多久和城明渡し 並びに布部大合戦の事」。</ref>。
 
戦いに勝利した毛利軍は、翌日の2月15日に月山富田城に入城し<ref>『桂岌圓覚書』其日は元の御陣に御打納め成され、次の日、十五日富田へ御座成され候。</ref>、尼子再興軍の包囲から城を開放する。一方の尼子再興軍は、この戦いに敗れたことにより、以後衰亡していくこととなる。
 
同年6月([[1570年]]7月)、布部山の敗戦により出雲における尼子再興軍の勢力は、[[新山城]]と[[高瀬城]]の2城となるまで追いつめられていた<ref>(元亀元年)6月8日 堀立壱岐守 宛て 吉川元春書状写「堀立家証文写」。出雲においては、尼子方の残っている城は新山城と高瀬城のみであり、その城下で放火を行ったことなどが記されている。</ref>。7月~8月には、両城下で毛利軍による麦薙ぎが行われる<ref>(元亀元年)7月29日 棚守左近衛将監 宛て 小早川隆景書状「切り紙、厳島野坂文書」。(元亀元年)8月26日 乃美兵部丞 宛て 毛利元就書状写「閥閲録11」ほか。</ref>など危険な状態となるが、同年9月5日([[1570年]]10月4日)、[[安芸国]]で[[毛利元就]]が重病におちいり、[[吉川元春]]を残して[[毛利輝元]]・[[小早川隆景]]らの軍が国許へ帰還する<ref>(元亀元年)9月5日 渡辺左衛門太夫ほか3名 宛て 毛利輝元・小早川隆景連署書状写「閥閲録55」。</ref>と状況が一変する。山陰地方の毛利軍が手薄になったことにより、幸盛ら尼子再興軍は再びその勢力を盛り返すのである。
 
[[File:山中幸盛の槍砥石.JPG|250px|thumb|[[清水寺 (安来市)|清水寺]]([[島根県]][[安来市]]清水町)の札打ち巡拝路にある、山中鹿介の槍砥石。この石で幸盛が槍を砥いだとされる。]]
 
幸盛ら尼子再興軍は、[[中海]]における海運の重要拠点である[[十神山城]]や末吉城など、[[出雲国|出雲]][[伯耆]]の境にある城を次々と奪還するとともに<ref>(元亀元年)9月25日 湯原右京進 宛て 毛利輝元・毛利元就・小早川隆景連署書状写/(元亀元年)9月25日/湯原右京進宛」(『閥閲録115ほか</ref>、一時、[[清水寺 (安来市)|清水]]要害を攻略して<ref>「毛利元就書状写/(元亀元年)10月14日 /国司雅楽允 て 毛利元就書状写「」(『閥閲録55」。10月8日に、清水山に籠もる尼子軍を毛利軍が攻撃し、戦功を挙げているのが記載されている。』)</ref>再び[[月山富田城]]へ迫った。
また、高瀬城に籠もる米原綱寛との連携を図るため、宍道湖北岸に[[満願寺城]]を建設<ref>「毛利輝元・毛利元就連署書状/(元亀元年)10月25日/名井豊前守ほか5名宛」(「知新集」所収文書『閥閲録124』)</ref>。吉川元春を追い詰め、その居城である手崎城([[平田城]])へ攻め込む<ref>「吉川元春・口羽通良連署書状/(元亀元年)10月15日/岡又十郎宛」(『折紙、岡家文書』ほか)</ref>など、その攻勢を強めている。
さらに、[[隠岐国]]の[[国人]]・隠岐弾正左衛門尉を味方につけることに成功しており<ref>「尼子勝久宛行状写/永禄13年9月29日/隠岐弾正左衛門尉宛」(『国代考証』所収文書)</ref>、日本海側の[[制海権]]も取得しつつあった尼子再興軍は、再びその勢力を島根半島全域にまで拡大する。
 
[[元亀]]元年10年6月(1570年11月3日)、出雲国における毛利軍劣勢の知らせを受けた元就は、出雲国で苦戦する毛利軍を援護するとともに、日本海側の制海権を奪還するため、直属の[[水軍]]部隊・[[児玉就英]]を出雲へ派遣させる<ref>「毛利元就書状写/(元亀元年)10月6日/児玉与八宛」(『閥閲録100』)</ref>。
また、高瀬城に籠もる[[米原綱寛]]との連携を図るため、[[宍道湖]]北部に満願寺城を建設<ref>(元亀元年)10月25日 名井豊前守ほか5名 宛て 毛利輝元・毛利元就連署書状「知新集」所収文書(「閥閲録124」)。</ref>。吉川元春を追い詰め、その居城である手崎城([[平田城]])へ攻め込む<ref>(元亀元年)10月15日 岡又十郎 宛て 吉川元春・口羽通良連署書状「折紙、岡家文書」ほか。10月15日には、吉川元春が籠もる手崎城へ尼子軍が攻め込み、毛利軍が防戦に努めていたことが分かる。</ref>など、その攻勢を強めている。
この援軍によって、その後の戦いは次第に毛利軍が優勢となり、10月下旬頃には十神山城が<ref>「毛利輝元・毛利元就連署書状写/(元亀元年)11月1日/児玉与八宛」(『閥閲録100』)</ref>、12月には満願寺城が落城する<ref>「毛利輝元書状写/(元亀元年)12月12日/末国左馬助宛」(『閥閲録128』)</ref>など、尼子再興軍の勢力は次第に縮小していくこととなる{{Refnest|group="注"|高瀬城は元亀2年3月19日に落城<ref>「毛利輝元・毛利元就連署書状写/(元亀2年3月22日)/国司雅楽允ほか2名宛」(『閥閲録55』)</ref>、伯耆の岩倉城は元亀2年5月14日に落城<ref>「吉川元春書状写/(元亀2年5月15日)/山田出雲守宛」(『山田家古文書』)</ref>など}}。
 
そして、元亀2年8月20日([[1971年]]9月8日)頃には、最後の拠点であった新山城が落城<ref>「毛利輝元書状/(元亀2年)8月24日/野村信濃守宛」(『野村家文書』</ref>{{Refnest|group="注"|同じ頃、伯耆における尼子再興軍の最後の拠点・八橋城も落城している<ref>「吉川元春書状/(元亀2年)8月27日/山田出雲守宛」(『山田家古文書』)</ref>}}。籠城していた尼子勝久は、落城前に脱出して隠岐へ逃れている<ref>「志賀鑑信書状/(元亀3年)6月20日/牧兵庫助宛」(『切紙、石見牧家文書』)</ref>。
さらに、このとき、[[隠岐国]]の[[国人]]・隠岐弾正左衛門尉を味方につけることに成功しており<ref>永禄13年9月29日 隠岐弾正左衛門尉 宛て 尼子勝久宛行状写「国代考証」所収文書。</ref>、[[日本海]]側の[[制海権]]も取得しつつあった。幸盛ら尼子再興軍は、再びその勢力を[[島根半島]]全域にまで拡大するのである。
 
同じ頃、末吉城に籠もり戦っていた幸盛も敗れ<ref>「毛利元秋書状写/(元亀2年)8月20日/湯原右京進宛」(『閥閲録115』)</ref>、吉川元春に捕らえられる<ref name="moriwaki2">『森脇覚書』「雲州御弓矢最終の事」</ref>。幸盛は[[尾高城]]へ幽閉されることとなるが、その後に隙をついて脱出している<ref name="moriwaki2"/>。
[[元亀]]元年10年6月([[1570年]]11月3日)、出雲国における毛利軍劣勢の知らせを受けた元就は、この状況を打開するため、直属の[[水軍]]部隊・[[児玉就英]]を出雲へ派遣させる<ref>(元亀元年)10月6日 児玉与八 宛て 毛利元就書状写「閥閲録100」。</ref>。出雲国で苦戦する毛利軍を援護するとともに、日本海側の制海権を奪取しようと計画したのである。
こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、1回目の再興運動は失敗に終わった。
 
==== 第二次尼子再興運動 ====
この援軍によって、その後の戦いは次第に毛利軍が優勢となり、同年10月下旬頃には[[十神山城]]が<ref>(元亀元年)11月1日 児玉与八 宛て 毛利輝元・毛利元就連署書状写「閥閲録100」。</ref>、同年12月には[[満願寺城]]が落城する<ref>(元亀元年)12月12日 末国左馬助 宛て 毛利輝元書状写「閥閲録128」。</ref>など、尼子再興軍の勢力は次第に縮小していくこととなる<ref>高瀬城は元亀2年3月19日に落城((元亀2年3月22日)国司雅楽允ほか2名 宛て 毛利輝元・毛利元就連署書状写「閥閲録55」)、伯耆の岩倉城は元亀2年5月14日に落城((元亀2年5月15日)山田出雲守 宛て 吉川元春書状写「山田家古文書」)など。</ref>。
尾高城から脱出した幸盛は、海を渡って隠岐国へ逃れると、元亀3年3月~4月(1572年2月~3月)頃には再び海を渡って本土へ戻り、但馬国に潜伏する<ref name="亀井鹿介">「牧尚春書状写/(元亀3年)3月11日/村上中務少輔宛」(『島家遺事』所引森藩島家文書)ほか。</ref>。
そして、[[瀬戸内海]]の海賊・[[村上武吉]]や[[美作三浦氏]]の重臣・[[牧尚春]]らと連絡を取りつつ<ref>「村上武吉書状写/(元亀3年)4月8日/牧兵庫助宛」(切紙、石見牧家文書)ほか</ref>、再び尼子家再興の機会をうかがっていた。なお、このとき幸盛は[[亀井氏|亀井姓]]を名乗っていたようである<ref name="亀井鹿介" />。
 
元亀4年([[1573年]])初頭、幸盛は但馬から因幡へ攻め込み、[[桐山城]]を攻略して拠点とすると<ref name="mindanki">『[[因幡民談記]]』国主之部「山中鹿之助当国に来り、所々戦之事」</ref>、因幡の地で様々な軍事活動を開始する。幸盛は、因幡を足がかりに、伯耆・出雲方面への勢力の拡大を計画していたと思われる。
そして、[[元亀]]2年8月20日([[1971年]]9月8日)頃には、最後の拠点であった[[新山城]]が落城<ref>(元亀2年)8月24日 野村信濃守 宛て 毛利輝元書状「野村家文書」。同じ頃、伯耆における尼子再興軍の最後の拠点・八橋城が落城している((元亀2年)8月27日 山田出雲守 宛て 吉川元春書状「山田家文書」)。</ref>。籠城していた当主である勝久は、落城前に脱出して[[隠岐国|隠岐]]へ逃れている<ref>(元亀3年)6月20日 牧兵庫助 宛て 志賀鑑信書状「切紙、石見牧家文書」。</ref>。
 
このとき、因幡国の実質的な領主は、毛利方の国人・[[武田高信]]であった。高信は、去る永禄6年([[1563年]])に当時の因幡国主・[[山名豊数]]と争って勝利を収めると<ref>「山名豊数宛行状写/永禄6年12月11日」「山名徳寿丸・宗詮連署書状/(永禄6年)閏12月14日」(『譜録』秋里)</ref>、毛利氏と連携をとりつつ因幡の地で勢力拡大をしてきた人物である。
同じ頃<ref>(元亀2年)8月20日 湯原右京進 宛て 毛利元秋書状写「閥閲録115」。8月20日頃までに末吉城は落城。</ref>、末吉城に籠もり戦っていた幸盛も敗れ、吉川元春に捕らえられる<ref>『森脇覚書』「雲州御弓矢最終の事」。末石と申城に、山中鹿介罷居り候。</ref>。幸盛は[[尾高城]]へ幽閉されることとなるが、その後、隙をついて脱出している<ref>『森脇覚書』「雲州御弓矢最終の事」。尾高城に幽閉されたことと、鹿介が脱出したことなどが記載されている。</ref>。
 
幸盛ら尼子再興軍は、豊数の弟で山名氏再起を目指す[[山名豊国]]を味方につけると<ref name="taikoki19-2"/><ref name="mindanki"/>、因幡の各地で転戦し勝利を収め、勢力を拡大する。そして、甑山城(こしきやまじょう)の戦いで武田軍に決定的な勝利を得ると([[鳥取のたのも崩れの合戦]])<ref>『[[因幡民談記]]』国主之部「鳥取タノモ崩之事」</ref><ref group="注">その他、甑山城の戦いは『[[雲陽軍実記]]』や『[[陰徳太平記]]』にも記載がある。『[[因幡民談記]]』は天正元年8月1日。『[[雲陽軍実記]]』は天正元年8月。『[[陰徳太平記]]』は元亀3年8月に戦いがあったと記載。</ref>、高信の居城・[[鳥取城]]攻めを本格化させる。
こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、第1回目の再興運動は失敗に終わるのである。
{{-}}
 
[[天正]]元年8月1日(1573年8月28日)<ref>「尼子勝久感状写/天正元年8月21日/中井与三郎宛」(『閥閲録120』)</ref>、尼子再興軍は、約1,000の兵で武田軍5,000が籠もる鳥取城へ攻め寄ると<ref name="taikoki19-2"/>、その後も攻勢を続け、同年9月下旬に鳥取城を攻略した<ref>「吉川元春・元長連署覚書/(天正年間)10月18日」(『藩中諸家古文書纂』)<br />「吉川元春書状写/天正元年9月27日/久芳因幡守宛」(『閥閲録117』)ほか</ref>。城に籠もっていた武田家臣らは、尼子再興軍に人質を差し出し降伏した。
=== 第二回尼子再興 ===
* [[元亀]]3年([[1572年]]・28歳) - [[天正]]4年([[1576年]]・32歳)
 
鳥取城には山名豊国が入り、尼子再興軍は、[[市場城|私部城]]に本拠を構え居城とした{{sfn|鳥取県|p=94}}{{Refnest|group="注"|『太閤記』では鳥取城の本丸に尼子再興軍が、二の丸に豊国が入ったとする<ref name="taikoki19-2"/>。また、『雲陽軍実記』や『陰徳太平記』などの軍記資料では、その後、幸盛は鳥取城を退出し、京に上り織田信長に謁見。そして再び因幡へ攻め入り、再度鳥取城を落としたとする。}}。
尾高城から脱出した幸盛は、海を渡って[[隠岐国]]へ逃れると、[[元亀]]3年3月~4月([[1572年]]2月~3月)頃には再び海を渡って本土へ戻り、[[但馬国]]に潜伏する<ref name="亀井鹿介">(元亀3年)3月11日 村上中務少輔 宛て 牧尚春書状写(「島家遺事」所引森藩島家文書)ほか。</ref>。そして、[[瀬戸内海]]の海賊・[[村上武吉]]や[[美作国|美作]]の[[美作三浦氏|三浦氏]]の重臣・[[牧尚春]]らと連絡を取りつつ<ref>(元亀3年)4月8日 牧兵庫助 宛て 村上武吉書状写(切紙、石見牧家文書)ほか。</ref>、再び尼子家再興の機会をうかがっていた。なお、このとき幸盛は[[亀井氏|亀井]]性を名乗っていたようである<ref name="亀井鹿介" />。
幸盛はその後、10日の間に15城を攻略するなどして勢力を3,000余りに拡大し<ref name="jikki5">『雲陽軍実記』第五巻「山中鹿之助漂泊、社寺宝物押領 並びに因伯度々合戦の事」</ref>{{Refnest|group="注"|『陰徳太平記』では13城。<ref>『陰徳太平記』巻第五十一「山中鹿助と大坪甚兵衛与合戦之事」</ref>}}、東因幡一円の支配に成功した<ref>「毛利輝元書状写/(天正元年)9月22日/野村信濃入道宛」、「粟屋就秀・粟屋元勝・粟屋元真連署書状写/(天正元年か)9月24日/野村信濃入道宛」(『閥閲録123』)</ref>。
 
ところが11月上旬<ref>「毛利輝元書状写/(天正元年か)11月12日/井原小四郎宛」(『閥閲録40』)</ref>、豊国が、田公高次などの懐柔により毛利方に寝返る<ref name="motoharu">「吉川元春書状写/(天正2年)3月26日/田公次郎左衛門尉宛」(『吉川家中并寺社文書』)</ref>。尼子再興軍は、わずか1ヶ月余りで毛利氏に鳥取城を奪い返されてしまった。
[[元亀]]4年([[1573年]])初頭、幸盛は[[但馬国]]から[[因幡国]]へ攻め込み、[[桐山城]]を攻略して拠点とすると<ref>『[[因幡民談記]]』国主之部「山中鹿之助当国に来り、所々戦之事」。</ref>、因幡の地で様々な軍事活動を開始する。幸盛は、この因幡の地を足がかりに、[[伯耆国|伯耆]]・[[出雲国|出雲]]方面への勢力の拡大を計画していたと思われる。
鳥取城を奪われ勢力が不安定となった幸盛は、その後、因幡各地でさまざまな軍事活動・調略を行い<ref name="motoharu"/>、因幡平定に向けて尽力することとなる。
 
因幡国内で毛利軍と交戦する一方{{Refnest|group="注"|鳥取城下や岩井方面(鳥取県岩美郡岩美町)で合戦に及んでいる。<ref>吉川元春感状写/(天正2年)10月5日/牛尾大蔵左衛門尉(春信)宛」(『集古文書』)ほか</ref>}}、美作美浦氏や[[備前国]]の[[浦上氏]]、[[豊前国]]の大友氏などの反毛利勢力と連携を図るとともに<ref>「大友宗麟書状/(天正2年カ)8月2日/牧兵庫助宛」、「浦上左京入道(宗鉄)書状/(天正2年)11月18日/牧兵庫助宛」(切紙、石見牧家文書)</ref>、密かに織田信長配下の[[柴田勝家]]と連絡を取って<ref>「[[安国寺恵瓊]]自筆書状/(天正元年)12月12日/井上又右衛門尉宛」(『吉川家文書610』)</ref>体制の立て直しを図っていった。
このとき、因幡国の実質的な領主は、毛利方の国人・[[武田高信]]であった。高信は、[[永禄]]6年([[1563年]])に当時の因幡国の領主・[[山名豊数]]と争って勝利を収めると<ref>永禄6年12月11日 山名豊数宛行状写 「譜録」秋里。(永禄6年)閏12月14日 山名徳寿丸・宗詮連署書状 「譜録」秋里。</ref>、毛利氏と連携をとりつつ因幡の地で勢力拡大をしてきた人物である。
 
これら戦いの中で幸盛は、天正2年11月([[1574年]]12月)、美作三浦氏の居城・[[勝山城 (美作国)|高田城]]で[[宇喜多直家]]軍を撃退し功績を挙げたとして、[[大友宗麟]]から火薬の原料となる[[硝石|塩硝]]1壷をもらい受けるなどしている<ref>「大友宗麟書状/(天正2年か)11月19日/亀井鹿介宛」(切紙、橋本家文書)</ref>。
幸盛ら尼子再興軍は、豊数の弟で山名氏再起を目指す[[山名豊国]]を味方につけると<ref>『[[太閤記]]』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有事」。『[[因幡民談記]]』国主之部「山中鹿之助当国に来り、所々戦之事」ほか。</ref>、因幡の各地で転戦し勝利を収め、勢力を拡大する。そして、甑山城(こしきやまじょう)の戦いで武田軍に決定的な勝利を得ると([[鳥取のたのも崩れの合戦]])<ref>『[[因幡民談記]]』国主之部「鳥取タノモ崩之事」。その他、甑山城の戦いは『[[雲陽軍実記]]』や『[[陰徳太平記]]』にも記載がある。『[[因幡民談記]]』は天正元年8月1日。『[[雲陽軍実記]]』は天正元年8月。『[[陰徳太平記]]』は元亀3年8月に戦いがあったと記載。</ref>、高信の居城・[[鳥取城]]攻めを本格化させる。
 
天正3年5月([[1575年]]7月)、但馬の山名祐豊が毛利氏と「芸但和睦」と呼ばれる和平交渉を締結する<ref>「山名韶熈(祐豊)・山名氏政連署書状/天正3年5月28日/吉川駿河守(元春)宛」(『吉川家文書577』)</ref>{{Refnest|group="注"|山名豊国らの仲介によって、天正3年正月頃には和平に向けた合意がなされていた。
[[天正]]元年8月1日([[1573年]]8月28日)<ref>天正元年8月21日 中井与三郎 宛て 尼子勝久感状写「閥閲録120」。</ref>、幸盛ら尼子再興軍は、約1,000の兵を率いて武田軍5,000が籠もる鳥取城へ攻め寄ると<ref>『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有る事」。</ref>、その後も攻勢を続け、同年9月下旬に鳥取城を攻略した<ref>(天正年間)10月18日 吉川元春・元長連署覚書「藩中諸家古文書纂」。天正元年9月27日 久芳因幡守 宛て 吉川元春書状写「閥閲録117」ほか。鳥取城は9月27日より前に落城。城に籠もっていた武田家臣らは、尼子再興軍に人質を差し出し降伏。</ref>。
<ref>山名韶熈書状/(天正3年)正月26日/吉川駿河守(元春)宛」(『吉川家文書580』)</ref>}}。
かつて毛利氏と敵対し、尼子再興軍を支援していた祐豊であったが、この頃は信長に但馬の支配権や[[生野銀山]]に対する権益を脅かされつつあり、毛利氏と手を組むことは重要であった{{sfn|鳥取県|p=98}}。
 
但馬山名氏の支援を受けれなくなった幸盛は、天正3年6月14~15日(7月21~22日)に因幡の[[若桜鬼ヶ城]]を攻略し、拠点をここに移す<ref>『中務大輔家久公御上京日記』天正3年6月17日条「国立国会図書館所蔵」。天正3年、[[島津家久]]が京へ上った時につけていた日記。6月17日の日記のなかで、2・3日前に山中鹿助が若桜鬼ヶ城の城主を謀略により生け捕り、城に入ったことが記されている。</ref>。元の居城・私部城には[[亀井茲矩]]が入ったとされる。
攻略した鳥取城には豊国が入り、幸盛ら尼子再興軍は、[[市場城|私部城]]に本拠を構え居城とした<ref>鳥取県公立文書館 県史編さん室『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』(鳥取県 2010年)P94。『太閤記』では鳥取城の本丸に尼子再興軍が、二の丸に豊国が入ったとする(『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有る事」)。また、『雲陽軍実記』や『陰徳太平記』などの軍記資料では、その後、幸盛は鳥取城を退出し、京に上り織田信長に謁見。そして再び因幡へ攻め入り、再度鳥取城を落としたとする。</ref>。幸盛はその後、10日の間に15城を攻略するなどして勢力を3000余りに拡大し<ref>『雲陽軍実記』第五巻「山中鹿之助漂泊、社寺宝物押領 並びに因伯度々合戦の事」。『陰徳太平記』では13城、勢力は3000余りで同じ(『陰徳太平記』巻第五十一「山中鹿助と大坪甚兵衛与合戦之事」)。</ref>、東因幡一円の支配に成功した<ref>(天正元年)9月22日 野村信濃入道 宛て 毛利輝元書状写「閥閲録123」。(天正元年カ)9月24日 野村信濃入道 宛て 粟屋就秀・粟屋元勝・粟屋元真連署書状写「閥閲録123」。毛利軍が、[[鹿野城]]を因伯仕切りの城と位置づけ、因幡の中央に位置する[[布勢天神山城]]を最前線の城として整備するよう指示していることが分かる。</ref>。
この若桜鬼ヶ城は、因幡から但馬・[[播磨国|播磨]]へ向かう山間交通路の結節点に位置しており、敵対する山名氏の本拠である但馬を避けつつ、播磨から京都へ向かうルートを確保するという目的があったと思われる{{sfn|鳥取県|p=99}}。
 
6月、吉川元春と小早川隆景は、約47,000<ref>『陰徳太平記』巻第五十一「私部の麓合戦之事」。吉川軍27,000、小早川軍20,000の兵。</ref>{{Refnest|group="注"|『雲陽軍実記』では45,000の兵。<ref name="jikki5"/>}}の兵を率いて因幡へ軍を進め、尼子再興軍への総攻撃を開始する{{Refnest|group="注"|このとき、山名豊国が但馬の山名祐豊にも因幡への出兵を要請していた<ref>「垣屋豊続書状/天正3年6月7日/吉川駿河守(元春)宛」(切紙、『吉川家文書597』)</ref>}}。
ところが同年11月上旬<ref>(天正元年カ)11月12日 井原小四郎 宛て 毛利輝元書状写「閥閲録40」。</ref>、鳥取城に籠もる豊国が、田公高次などの懐柔により毛利方に寝返る事件が発生する<ref>(天正2年)3月26日 田公次郎左衛門尉 宛て 吉川元春書状写「吉川家中并寺社文書」。</ref>。幸盛ら尼子再興軍は、わずか1ヶ月余りで毛利氏に鳥取城を奪われてしまうのである。
元春ら毛利軍は、尼子再興軍の諸城を次々と攻略するとともに、8月29日(10月2日)には幸盛が籠もる若桜鬼ヶ城へ攻撃を開始する<ref>「草刈氏軍忠状写/(天正3年)9月18日」(『閥閲録34』)</ref>。
尼子再興軍は、毛利軍の攻撃を防ぎ撃退することに成功するも、10月上旬頃には私部城が落城し<ref>「山名韶熈(祐豊)書状/(天正3年)10月13日/吉川駿河守(元春)宛」(切紙『吉川家文書584』)</ref>、因幡における尼子再興軍の拠点はこの若桜鬼ヶ城の1城を残すのみとなるのである。
しかしながら、その後の尼子再興軍の奮戦や、[[山陽地方|山陽]]方面で[[織田氏]]と毛利氏との間の緊張が高まったことなどにより、10月21日(11月23日)、毛利軍は若桜鬼ヶ城の周辺に多数の付城を築いて<ref>「毛利輝元書状写/(天正3年)10月15日/国対(国司就信)・黒三(黒川蒼保)宛」(『閥閲録55』)</ref>因幡から撤退する<ref>「吉川元春書状/(天正3年)10月21日/大坪甚兵衛尉宛」(切紙、中村家文書)</ref>。
 
ところが、反毛利勢力の三村氏の滅亡{{Refnest|group="注"|三村氏の居城・松山城は6月7日の時点で既に落城<ref>「垣屋豊続書状/(天正3年)6月7日/吉川駿河守(元春)宛て」(切紙『吉川家文書597』</ref>。なお、『備中兵乱記』によれば5月22日に落城<ref>『備中兵乱記』巻の中「元親が阿部山へ落ちたこと」</ref>。三村氏の当主・三村元親は6月2日に自害<ref>『備中兵乱記』巻の下「元親の最後の事」</ref>。}}、浦上氏の衰退{{Refnest|group="注"|浦上氏の居城・[[天神山城 (備前国)|天神山城]]が、9月14日までには落城していた。<ref name="terumoto">「毛利輝元書状写/(天正3年)9月14日/吉見正頼宛」(『閥閲録6』)</ref>}}、また支援を受けていた美作三浦氏が毛利氏に降伏したこと{{Refnest|group="注"|9月11日、三浦氏の居城・高田城が落城し、これにより三浦氏は事実上滅亡した。<ref name="terumoto"/>}}などもあり、尼子再興軍は因幡の地において完全に孤立化する。
鳥取城を奪われ勢力が不安定となった幸盛は、その後、因幡各地でさまざまな軍事活動・調略を行い<ref>天正2年)3月26日 田公次郎左衛門尉 宛て 吉川元春書状写「吉川家中并寺社文書」。私部城にいる幸盛が、因幡国内で様々な調略活動を行っているので油断できないと元春が田公氏に伝えていることが分かる。</ref>、因幡平定に向けて尽力することとなる。
 
さらに、元春ら毛利軍主力の撤退後も因幡の毛利勢から圧力を受け続けたこともあって、天正4年([[1576年]])5月頃、尼子再興軍は若桜鬼ヶ城を退去し因幡から撤退する<ref>「八木豊信書状/(天正4年)5月7日/吉川駿河守(元春)宛」(切紙、『吉川家文書599』)</ref>。
因幡国内で毛利軍と交戦する一方<ref>天正2年)10月5日 牛尾大蔵左衛門尉(春信) 宛て 吉川元春感状写「集古文書」ほか。鳥取城下や岩井方面(鳥取県岩美郡岩美町)で合戦に及んでいることが分かる。</ref>、[[美作国|美作]]の[[美作三浦氏|三浦氏]]や[[備前国|備前]]の[[浦上氏]]、[[豊前国|豊前]]の[[大友氏]]などの反毛利勢力と連携を図るとともに<ref>(天正2年カ)8月2日 牧兵庫助 宛て 大友宗麟書状(切紙、石見牧家文書)。(天正2年)11月18日 牧兵庫助 宛て 浦上左京入道(宗鉄)書状(切紙、石見牧家文書)ほか。尼子再興軍が大友氏・三浦氏・浦上氏と連携を取り合っていたことが分かる。</ref>、密かに[[織田信長]]配下の[[柴田勝家]]と連絡を取って<ref>(天正元年)12月12日 井上又右衛門尉 宛て 安国寺恵瓊自筆書状「吉川家文書610」。</ref>体制の立て直しを図っていった。
こうして、2回目の尼子再興運動も失敗に終わった。
 
==== 第三次尼子再興運動〜幸盛の死 ====
これら戦いの中で幸盛は、[[天正]]2年11月([[1574年]]12月)、三浦氏の居城・[[勝山城 (美作国)|高田城]]で[[宇喜多直家]]軍を撃退し功績を挙げたとして、[[大友宗麟]]から火薬の原料となる[[硝石|塩硝]]1壷をもらい受けるなどしている<ref>(天正2年カ)11月19日 亀井鹿介 宛て 大友宗麟書状(切紙、橋本家文書)。</ref>。
因幡より撤退した幸盛は、織田信長を頼り京へ上る{{Refnest|group="注"|『太閤記』では、天正3年正月10日に近江国の安土山へ行き信長に謁見。その後、岐阜にいる織田信忠へ会いに行った<ref name="taikoki19-2"/>。『 陰徳太平記』では元亀2年、明智光秀の仲介で信長に謁見した<ref name="intoku49">『陰徳太平記』巻第四十九「山中幸盛立原久綱信長に謁する」</ref>。}}。
京で信長に面会した幸盛は、信長より「良き男」と称され、「四十里鹿毛」という駿馬を賜わったという<ref name="intoku49"/>。その後、幸盛は織田軍の下で尼子家再興を目指すことになる。
 
天正4年([[1576年]])、幸盛ら尼子再興軍は[[明智光秀]]の軍に加わり、但馬国の[[八木城 (但馬国)|八木城]]攻めや[[丹波国]]の籾井城攻めに参加する<ref name="watanabe">[[慶長]]16年3月13日『渡辺助允覚書』「島根県立図書館蔵文書」。</ref>。
[[天正]]3年5月([[1575年]]7月)、幸盛ら尼子再興軍にとって更なる苦難となる事態が発生する。[[但馬国|但馬]]の[[山名祐豊]]が、毛利氏と「芸但和睦」と呼ばれる和平交渉を締結するのである<ref>[!1]天正3年5月28日 吉川駿河守(元春) 宛て 山名韶熈(祐豊)・山名氏政連署書状「吉川家文書577」。山名豊国らの仲介によって、天正3年正月頃には和平に向けた合意がなされていた((天正3年)正月26日 吉川駿河守(元春) 宛て 山名韶熈書状「吉川家文書580」)。</ref>。
11月、明智軍が籾井城を攻めて敗れると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍の殿となり、追撃する[[波多野氏#丹波波多野氏|波多野]]・[[赤井氏|赤井]]軍を迎え撃って切り崩し、軍の崩壊を防いだことで光秀より褒美を賜っている<ref name="watanabe"/>。その他、丹波攻めの際には2度の比類ない働きをした<ref name="taikoki19-2"/>。
 
天正5年([[1577年]])、幸盛は、信長の嫡子・[[織田信忠]]に従い、[[片岡城]]攻めや[[松永久秀]]が篭城する[[信貴山城]]攻めに参加する([[信貴山城の戦い]])<ref name="watanabe"/><ref name="taikoki19-2"/>。
かつて毛利氏と敵対し、尼子再興軍を支援していた祐豊であったが、この頃は[[織田信長]]に但馬の支配権や[[生野銀山]]に対する権益を脅かされつつあり、毛利氏と手を組むことは重要であったからである<ref>鳥取県公立文書館 県史編さん室『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』(鳥取県 2010年)P98。</ref>。
幸盛はこのとき、片岡城攻めでは1番乗り<ref name="watanabe"/>、信貴山城攻めでは2番乗りの功績を上げた<ref name="taikoki19-2"/>。また、この戦いで幸盛は、久秀配下の将・河合将監を一騎討ちで討ち取っている<ref name="watanabe"/><ref name="taikoki19-2"/><ref group="注">『太閤記』では信貴山城を攻めた際、『 渡辺助允覚書』では片岡城を攻めた際のこと。また『渡辺助允覚書』では河合将監を河人将監と記載。</ref>。
 
10月、信長の命令を受けた[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が播磨へ進軍を開始すると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍を離れ、秀吉軍の下で戦うこととなる。
但馬山名氏の支援を受けれなくなった幸盛は、[[天正]]3年 6月14~15日([[1575年]]7月21~22日)に因幡の[[若桜鬼ヶ城]]を攻略し、拠点をここに移す<ref>『中務大輔家久公御上京日記』天正3年6月17日条「国立国会図書館所蔵」。天正3年、[[島津家久]]が京へ上った時につけていた日記。6月17日の日記のなかで、2・3日前に山中鹿助が若桜鬼ヶ城の城主を謀略により生け捕り、城に入ったことが記されている。</ref>。元の居城・私部城には[[亀井茲矩]]が入ったとされる。
 
12月([[1578年]]1月)、秀吉が、播磨西部の毛利方の拠点である[[上月城]]を攻略すると、幸盛は、主君・尼子勝久と共にその城に入る<ref>「羽柴秀吉書状/(天正5年)12月5日/下村玄蕃助宛」(『下村家文書』)</ref>。尼子再興軍は、この城を拠点として最後の尼子家再興を図って行く{{Refnest|group="注"|勝久は、このとき遠く離れた出雲の[[熊野大社]]へ[[安堵状]]を出すなど、出雲への復帰の意思を示している。<ref>「尼子勝久安堵状写/天正5年12月8日」(切紙、『熊野神社文書』)</ref>}}。
この若桜鬼ヶ城は、因幡から但馬・[[播磨国|播磨]]へ向かう山間交通路の結節点に位置しており、交通の要衝であった。敵対する山名氏の本拠である但馬を避けつつ、播磨から京都へ向かうルートを確保するという目的があったと思われる<ref>鳥取県公立文書館 県史編さん室『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』(鳥取県 2010年)P99。</ref>。
上月城は小城であったが、備前・美作・播磨の国境に位置し、この地域を治める上で重要な拠点であった。城番となった幸盛は、この区域の守備を行うと共に、織田氏と[[美作菅氏#江見氏|美作江見氏]]との仲介を行うなど、美作国人の懐柔・調略を行っていく<ref>「羽柴秀吉書状写/(天正6年)正月18日/江見九郎次郎宛」(『美作古簡集』)ほか</ref>。
 
天正6年2月1日(1578年3月9日)、[[宇喜多氏|宇喜多軍]]の将・真壁次郎四郎が約3,000の兵で上月城を攻める<ref group="注">天正6年1月末に出陣、翌日に上月城の手前60[[町 (単位)|町]]余りで布陣した。</ref>。この戦いは、幸盛が約800の兵を率いて宇喜多軍を夜討ちし、次郎四郎を討ち取って尼子再興軍が勝利している<ref>『備前軍記』巻第四「羽柴秀吉と宇喜多勢が播州で合戦の事」。『陰徳太平記』巻第五十四「尼子勝久上月城に入事」。</ref><ref group="注">『備前軍記』や『陰徳太平記』などによれば、
同年6月([[1575年]]7月)、[[吉川元春]]と[[小早川隆景]]は、約47,000<ref>『陰徳太平記』巻第五十一「私部の麓合戦之事」。吉川軍27,000、小早川軍20,000の兵。『雲陽軍実記』では45,000の兵(『雲陽軍実記』第五巻「山中鹿之助漂泊、社寺宝物押領 並びに因伯度々合戦の事」)。</ref>の兵を率いて因幡へ軍を進め、尼子再興軍への総攻撃を開始する<ref>天正3年6月7日 吉川駿河守(元春) 宛て 垣屋豊続書状(切紙、「吉川家文書597」)。このとき、山名豊国が但馬の山名祐豊にも因幡への出兵を要請していたことが分かる。</ref>。元春ら毛利軍は、尼子再興軍の諸城を次々と攻略するとともに、同年8月29日([[1575年]]10月2日)には幸盛が籠もる若桜鬼ヶ城へ攻撃を開始する<ref>(天正3年)9月18日 草刈氏軍忠状写「閥閲録34」。8月29日、若桜鬼ヶ城下で草刈氏が毛利方として参戦し、戦っていることが分かる。</ref>。
# 上月城を秀吉軍が落とす。
# 尼子勝久・山中幸盛らが京へ上った隙をついて宇喜多軍が上月城を落とし、真壁彦九郎が城主となる。
# 尼子再興軍が上月城を攻め、奪回。
# 上月城に籠もる尼子再興軍が、宇喜多軍の真壁次郎四郎を撃退。
# 宇喜多直家が自ら大軍を率い上月城を攻め、尼子再興軍は上月城を捨て撤退。
# 再度、秀吉軍が上月城を攻め落とし、尼子再興軍が入城。
と上月城の所有が二転三転している。</ref>。
 
2月中旬(3月下旬)、[[三木城]]の[[別所長治]]が信長に叛旗を翻し、毛利氏に味方する<ref>「織田信長朱印状/(天正6年)3月22日/[[黒田孝高|小寺官兵衛尉]]宛て」(『黒田文書』)</ref>。
幸盛ら尼子再興軍は、この毛利軍の攻撃を防ぎ撃退することに成功するも、同年10月([[1575年]]11月)上旬頃には茲矩が籠もったとされる私部城が落城し<ref>天正3年)10月13日 吉川駿河守(元春) 宛て 山名韶熈(祐豊)書状(切紙「吉川家文書584」。</ref>、因幡における尼子再興軍の拠点はこの若桜鬼ヶ城の1城を残すのみとなるのである。
織田氏と交戦状態にあった毛利氏は、これを好機と捉え、4月、吉川元春・小早川隆景ら率いる3万以上の兵{{Refnest|group="注"|吉川元長の書状には「此方の軍は3万」と記載されているが<ref name="motonaga L">「吉川元長自筆書状/(天正6年)5月晦日/以徹尊老宛」(『西禅永興両寺旧蔵文書』)</ref>、此方とは吉川軍だけか、または小早川・宇喜多軍を含めてかは不明。『家忠日記』では毛利軍は8万<ref>『家忠日記』天正6年5月「増補史料大成」</ref>}}をもって播磨に進軍する。そして4月18日(5月24日)、尼子再興軍が籠もる上月城を包囲する<ref>「吉川元春書状写/(天正6年)4月22日/湯原弾正忠宛」(『閥閲録115』)</ref>。
 
5月4日(6月9日)、毛利軍による上月城包囲の知らせを受けた秀吉は、[[荒木村重]]らと共に1万の軍<ref name="motonaga L"/>を率いて上月城の救援に向かい、高倉山に布陣する<ref>「吉川元春書状写/(天正6年)5月6日/内藤小七郎宛」(『閥閲録125』)</ref>。
しかしながら、その後の尼子再興軍の奮戦や、[[山陽地方|山陽]]方面で[[織田氏]]と毛利氏との間の緊張が高まったことなどにより、同年10月21日([[1575年]]11月23日)、毛利軍は若桜鬼ヶ城の周辺に多数の付城を築いて<ref>(天正3年)10月15日 国対(国司就信)・黒三(黒川蒼保) 宛て 毛利輝元書状写「閥閲録55」。元春が若桜鬼ヶ城の周りに付城を築いていることなどが記されている。</ref>因幡から撤退する<ref>(天正3年)10月21日 大坪甚兵衛尉 宛て 吉川元春書状(切紙、中村家文書)。東西弓箭儀(織田氏への対策)を毛利家の中で協議するため、[[吉田郡山城]]へ一時帰国する必要となったこと。若桜鬼ヶ城を落とすことができず、無念であることなどが記載されている。</ref>。幸盛ら尼子再興軍は、毛利軍の撃退に成功するのである。
しかし、秀吉軍は、信長から三木城の攻撃を優先するよう命じられたことや<ref name="shinchokoki">『信長公記』巻十一</ref>、6月21日(7月25日 )の高倉山合戦で毛利軍に敗れたこともあって<ref>「毛利輝元書状写/(天正6年)6月28日/児玉元良宛」(『閥閲録17』)</ref>、6月26日(7月30日)に陣を引き払い書写山まで撤退する<ref name="shinchokoki"/>。
その結果、上月城は孤立無縁となり、兵糧が底を突き、また城を離れる者も後を絶たなくなったため<ref name="motonaga L"/>、7月5日(8月8日 )、尼子再興軍は毛利軍に降伏する<ref name="kishomon">「吉川元春外三名連署起請文写/(天正6年)7月5日/日野五郎・立原源太兵衛・山中鹿助宛」(『天野毛利譜録』)</ref>([[上月城の戦い]])。
 
降伏の条件として、尼子勝久及び弟の[[尼子氏久|助四郎]]は切腹、幸盛と[[立原久綱]]は生け捕られ人質となる<ref name="motoharu L2">「吉川元春自筆書状/(天正6年)7月12日/一色式部少輔宛」(『吉川家文書』)</ref>。その他、毛利氏に敵対した多く者は処刑され<ref group="注">『桂岌円覚書』によれば53人。「芸州へ不忠の者五三人、勝久同前に打果し・・・」。</ref>、それ以外の者は許され解放された<ref name="kishomon"/>。
ところが、反毛利勢力の三村氏の滅亡や<ref>(天正3年)6月7日 吉川駿河守(元春) 宛て 垣屋豊続書状(切紙「吉川家文書597」。三村氏の居城・[[松山城 (備中国)|松山城]]は6月7日までに落城。小早川隆景が調略により松山城を降したことが記載されている。なお、『備中兵乱記』によれば5月22日に落城(『備中兵乱記』巻の中「元親が阿部山へ落ちたこと」)。三村氏の当主・[[三村元親]]は6月2日に自害(『備中兵乱記』巻の下「元親の最後の事」)。</ref>・浦上氏の勢力が衰退したこと<ref>(天正3年)9月14日 吉見正頼 宛て 毛利輝元書状写「閥閲録6」。浦上氏の居城・[[天神山城 (備前国)|天神山城]]が、この9月14日までには落城していたことが分かる。</ref>、また支援を受けていた三浦氏が毛利氏に降伏したこと<ref>(天正3年)9月14日 吉見正頼 宛て 毛利輝元書状写「閥閲録6」。9月11日、三浦氏の居城・高田城が落城し、これにより三浦氏は事実上滅亡した。</ref>などもあり、尼子再興軍は因幡の地において完全に孤立化する。
 
人質となった幸盛は、[[松山城 (備中国)|備中松山城]]に在陣する毛利輝元の下へと連行されることとなる<ref name="motoharu L2"/><ref>「小早川隆景書状/(天正6年)7月10日/楢崎三河守宛」(切紙、『楢崎家文書』)</ref>。しかし、途上の備中国合(阿井)の渡(現在の[[岡山県]][[高梁市]])にて、毛利氏の刺客により謀殺された<ref>「福間元明覚書写/天正14年」(『閥閲録83』)</ref>。
さらに、元春ら毛利軍主力の撤退後も因幡の毛利勢から圧力を受け続けたこともあって、[[天正]]4年 5月([[1576年]]6月)頃、幸盛ら尼子再興軍は若桜鬼ヶ城を退去し因幡から撤退する<ref>(天正4年)5月7日 吉川駿河守(元春) 宛て 八木豊信書状(切紙、「吉川家文書599」)。若桜鬼ヶ城の周りに多数の付城が築かれていたため、やがて尼子再興軍が城を捨てて退去したことが記されている。</ref>。
 
こうして、第2回目となる再興運動は失敗に終わるのである。
 
=== 第三回尼子再興 ===
* [[天正]]4年([[1576年]]・32歳) - 天正6年([[1578年]]・34歳)
 
[[因幡国|因幡]]より撤退した幸盛は、[[織田信長]]を頼り[[京都|京]]へ上る<ref>『太閤記』では、天正3年正月10日に近江国の安土山へ行き信長に謁見。その後、岐阜にいる織田信忠へ会いに行った(『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有事」)。『 陰徳太平記』では元亀2年、明智光秀の仲介で信長に謁見した(『陰徳太平記』巻第四十九「山中幸盛立原久綱信長に謁する」)。</ref>。京で信長に面会した幸盛は、信長より「良き男」と称され、四十里[[鹿毛]]という駿馬を賜わったという<ref>『陰徳太平記』巻第四十九「山中幸盛立原久綱信長に謁する」。</ref>。その後、幸盛は織田軍の下で尼子家再興を目指すことになる。
 
[[天正]]4年([[1576年]])、幸盛ら尼子再興軍は[[明智光秀]]の軍に加わり、[[但馬国|但馬]]の[[八木城 (但馬国)|八木城]]攻めや[[丹波国|丹波]]の籾井城攻めに参加する<ref>[[慶長]]16年3月13日『渡辺助允覚書』「島根県立図書館蔵文書」。</ref>。
 
同年11月(1576年12月)、明智軍が籾井城を攻めて敗れると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍の殿となり、追撃する[[波多野氏#丹波波多野氏|波多野]]・[[赤井氏|赤井]]軍を迎え撃って切り崩し、軍の崩壊を防いだことで光秀より褒美を賜っている<ref>慶長16年3月13日『渡辺助允覚書』「島根県立図書館蔵文書」。その他、丹波攻めの際には2度の比類ない働きをした(『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有る事」)。</ref>。
 
[[天正]]5年10月([[1577年]]11月)、幸盛は、[[織田氏]]の[[嫡子]]・[[織田信忠]]に従い、[[片岡城]]攻めや[[松永久秀]]が篭城する[[信貴山城]]攻めに参加する([[信貴山城の戦い]])<ref>慶長16年3月13日『渡辺助允覚書』「島根県立図書館蔵文書」。『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有る事」。</ref>。
 
幸盛はこのとき、片岡城攻めでは1番乗り<ref>慶長16年3月13日『渡辺助允覚書』「島根県立図書館蔵文書」。</ref>、信貴山城攻めでは2番乗りの功績を上げた<ref>『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有る事」。</ref>。また、この戦いで幸盛は、 久秀配下の将・河合将監を一騎討ちで討ち取っている<ref>慶長16年3月13日『渡辺助允覚書』「島根県立図書館蔵文書」。『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有る事」。『太閤記』では信貴山城を攻めた際、『 渡辺助允覚書』では片岡城を攻めた際のこと。また、『 渡辺助允覚書』では河合将監を河人将監と記載。</ref>。
 
同年10月(1577年11月)、信長の命令を受けた[[羽柴秀吉]]が[[播磨国|播磨]]へ進軍を開始すると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍を離れ、秀吉軍の下で戦うこととなる。
 
同年12月([[1578年]]1月)、秀吉が、播磨西部の[[毛利氏|毛利方]]の拠点である[[上月城]]を攻略すると、幸盛は、主君である尼子勝久と共にその城に入る<ref>(天正5年)12月5日 下村玄蕃助 宛て 羽柴秀吉書状「下村家文書」。</ref>。幸盛ら尼子再興軍は、この城を拠点として最後の尼子家再興を図って行くこととなる<ref>勝久は、このとき遠く離れた[[出雲国]|出雲]の[[熊野大社]]へ[[安堵状]]を出すなど、出雲への復帰の意思を示していることが分かる(天正5年12月8日 尼子勝久安堵状写(切紙、「熊野神社文書」))。</ref>。
 
この上月城は小城であったが、[[備前国|備前]]・[[美作国|美作]]・[[播磨国|播磨]]の国境に位置し、この地域を治める上で重要な拠点であった。城番となった幸盛は、この区域の守備を行うと共に、[[織田氏]]と[[美作菅氏#江見氏|美作・江見氏]]との仲介を行うなど、美作[[国人]]の懐柔・調略を行っていくこととなる<ref>(天正6年)正月18日 江見九郎次郎 宛て 羽柴秀吉書状写「美作古簡集」ほか。</ref>。
 
天正6年2月1日(1578年3月9日)、[[宇喜多氏|宇喜多軍]]の将・真壁次郎四郎が約3000の兵で上月城を攻める<ref>天正6年1月末に出陣、翌日に上月城の手前60[[町 (単位)|町]]余りで布陣した。</ref>。この戦いは、幸盛が約800の兵を率いて宇喜多軍を夜討ちし、次郎四郎を討ち取って尼子再興軍が勝利している<ref>『備前軍記』巻第四「羽柴秀吉と宇喜多勢が播州で合戦の事」。『陰徳太平記』巻第五十四「尼子勝久上月城に入事」。</ref><ref>『備前軍記』や『陰徳太平記』などによれば、①上月城を秀吉軍が落とす②勝久・幸盛らが京へ上った隙をついて宇喜多軍が上月城を落とし、真壁彦九郎が城主となる③尼子再興軍が上月城を攻め、奪回④上月城に籠もる幸盛ら尼子再興軍が、宇喜多軍の真壁次郎四郎を撃退⑤宇喜多直家が自ら大軍を率い上月城を攻め、尼子再興軍は上月城を捨て撤退。⑥再度、秀吉軍が上月城を攻め落とし、尼子再興軍が入城。と上月城の所有が二転三転している。</ref>。
 
同年2月中旬(1578年3月下旬)、[[三木城]]の[[別所長治]]が信長に叛旗を翻し、毛利氏に味方する事件が発生する<ref>(天正6年)3月22日 小寺官兵衛尉 宛て 織田信長朱印状「黒田文書」。</ref>。
 
織田氏と交戦状態にあった毛利氏は、これを好機と捉え、同年4月(1578年5月)、[[吉川元春]]・[[小早川隆景]]ら率いる3万以上の兵<ref>(天正6年)5月晦日 以徹尊老 宛て 吉川元長自筆書状「西禅永興両寺旧蔵文書」。此方の軍は3万と記載。此方とは吉川軍だけか、又は小早川・宇喜多軍を含めてかは不明。『家忠日記』では毛利軍は8万(『家忠日記』天正6年5月「増補史料大成」)</ref>をもって播磨に進軍する。そして同月18日(1578年5月24日)、幸盛ら尼子再興軍が籠もる上月城を包囲する<ref>(天正6年)4月22日 湯原弾正忠 宛て 吉川元春書状写「閥閲録115」。</ref>。
 
同年5月4日(1578年6月9日)、毛利軍による上月城包囲の知らせを受けた秀吉は、[[荒木村重]]らと共に1万の軍<ref>(天正6年)5月晦日 以徹尊老 宛て 吉川元長自筆書状「西禅永興両寺旧蔵文書」。羽柴秀吉、荒木村重らが軍を率いており、その兵力は推定1万であることなどが記載されている。</ref>を率いて上月城の救援に向かい、高倉山に布陣する<ref>(天正6年)5月6日 内藤小七郎 宛て 吉川元春書状写「閥閲録125」。</ref>。
 
しかし、秀吉軍は、信長から三木城の攻撃を優先するよう命じられたことや<ref>『信長公記』巻十一。</ref>、同年6月21日(1578年7月25日 )の高倉山合戦で毛利軍に敗れたこともあって<ref>(天正6年)6月28日 児玉元良 宛て 毛利輝元書状写「閥閲録17」。</ref>、同月26日( 1578年7月30日) 、陣を引き払い撤退する<ref>『信長公記』巻十一。滝川一益、明智光秀、丹羽長秀らの軍が、毛利軍の動きに対処するため三日月山に登り、秀吉軍は高倉山の陣を引き払い書写山まで撤退した。</ref>。
 
その結果、上月城は孤立無縁となり、兵糧が底を突き、また城を離れる者も後を絶たなくなったため<ref>(天正6年)5月晦日 以徹尊老 宛て 吉川元長自筆書状「西禅永興両寺旧蔵文書」ほか。5月下旬ごろの上月城の[[落人]]が話すことには、城には水と兵糧が全く無い状態となっていた。</ref>、同年7月5日(1578年8月8日 )、尼子再興軍は毛利軍に降伏する<ref>(天正6年)7月5日 日野五郎・立原源太兵衛・山中鹿助 宛て 吉川元春外三名連署起請文写「天野毛利譜録」。</ref>([[上月城の戦い]])。
 
降伏の条件として、勝久及び弟の[[尼子氏久|助四郎]]は切腹、幸盛と[[立原久綱]]は生け捕られ人質となる<ref>(天正6年)7月12日 一色式部少輔 宛て 吉川元春自筆書状「吉川家文書」。尼子勝久と尼子助四郎には切腹を申しつけたこと。毛利家に敵対する者を悉く処刑したこと。幸盛を人質として捕らえていることなどが記載されている。</ref>。その他、毛利氏に敵対した多く者は処刑され<ref>『桂岌円覚書』によれば53人。「芸州へ不忠の者五三人、勝久同前に打果し・・・」。</ref>、それ以外の者は許され解放された<ref>(天正6年)7月5日 日野五郎・立原源太兵衛・山中鹿助 宛て 吉川元春外三名連署起請文写「天野毛利譜録」。毛利方の条件を尼子方が飲めば、城内の衆を残らず助けること。幸盛らは人質となることが記載されている。</ref>。
 
人質となった幸盛は、[[松山城 (備中国)|備中松山城]]に在陣する[[毛利輝元]]の下へと連行されることとなる<ref>(天正6年)7月12日 一色式部少輔 宛て 吉川元春自筆書状「吉川家文書」。(天正6年)7月10日 楢崎三河守 宛て 小早川隆景書状(切紙、「楢崎家文書」)。幸盛が備中松山へ向け出発したのは7月10日。</ref>。しかし、途上の[[備中国]]の合(阿井)の渡(現在の[[岡山県]][[高梁市]])にて、毛利氏の刺客により謀殺された<ref>天正14年 福間元明覚書写「閥閲録83」。</ref>。
 
こうして幸盛による尼子家再興の夢は、ここに潰えるのである。
 
== その後 ==
[[File:鹿介神社.JPG|250px|thumb|鹿介神社([[島根県]][[安来市]]広瀬町布部)。幸盛を祀った神社。霊験あらたかにして、願解きには古武器類を奉納する習わしがあった。]]
 
幸盛の死は尼子再興運動の終幕ではあったが、尼子遺臣団の完全な解体とはならなかった。上月城陥落時[[亀井茲矩]]率いる部隊は秀吉に従い難を逃れていたためである尼子遺臣団の完全な解体とはならなかった。尼子遺臣団の一部はこの亀井家の家臣団として再編成され近世大名への道を歩み始める。その後は東軍に属して[[関ヶ原の戦い]]でも前衛の部隊として参戦、徳川[[幕藩体制]]に組み込まれ、[[幕末]]を迎えた。
 
長男とされる[[山中幸元]](鴻池新六)は父の死後、武士を廃して[[摂津国]][[川辺郡]]鴻池村(現・[[兵庫県]][[伊丹市]])で[[酒造業]]を始めて財をなし、のちに[[大阪|大坂]]に移住して[[江戸時代]]以降の豪商[[鴻池財閥]]の始祖となった。
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[[File:山中幸盛の屋敷にあったとされる五輪塔.JPG|250px|thumb|幸盛の屋敷にあったとされる[[五輪塔]] 。現在は近くの常光寺の墓地に移転されている。]]
 
幸盛の前半生は、確実な[[史料]]が残っておらず不明な点が多い。軍記史料も、生まれた場所や年など記載に相違がある。
 
=== 出生の日 ===
一般的に、出生日は[[天文 (元号)|天文]]14年8月15日([[1545年]]9月20日)とされる。これは『[[太閤記]]』『後太平記』によって記載され<ref name="shikanosukeden"/>『[太閤記]]』巻十九「山中鹿助伝」。<ref name="gotaiheiki"/ref><ref group="注">ただし、『後太平記』巻第四十「山中鹿之助品川狼介勝負之事」。ただし、巻第四十二 「山中鹿之助被誅事」には、[[天正]]6年([[1578年]])に39歳で死亡したと記載され、年齢があわない。</ref>、他の軍記史料には明確な出生日の記述が見られないからである。
 
『[[名将言行録]]』によれば「[[天正]]6年7月2日([[1578年]]8月5日)に34歳で死亡」と記載され<ref name="genkouroku">『[[名将言行録]]』巻三「山中幸盛」。天正六年七月二日、害に遭ふ。年三十四。</ref>、逆算すると天文14年に生まれたことになり、『[[太閤記]]』『後太平記』に記載される年と一致する。
 
しかし、もっとも成立の古い『[[雲陽軍実記]]』では、天正6年7月13日(1578年8月16日)に39歳で死亡したと記載される<ref>『[[雲陽軍実記]]』第五巻「木下藤吉郎秀吉、播州上月城加勢 並びに尼子勝久、氏久生害の事」</ref>。これを逆算すると、生まれた年は天文9年([[1540年]])になる。また、『[[陰徳太平記]]』<ref>『[[陰徳太平記]]』巻第五十六巻 「山中鹿の助最後の事」< name="intoku56"/ref>、『中国兵乱記』<ref name="heiranki">『中国兵乱記』四の巻 「山中鹿之助が誅せられた事」</ref>においても天正6年に39歳で死亡したとする。そのため、出生年を天文9年とする説がある。
 
なお、通説では、死亡した日は天正6年7月17日(1578年8月20日)とされる。これは『山中系図草案』『片寄家譜』によるものである<ref>[[{{Harvnb|米原正義]] 編『山中鹿介のすべて』(新人物往来社、1989年)P118|p=118}}。また『山中家譜草案』は、享年37歳と記載されるとする。</ref>。
 
=== 出生の地 ===
出生地においても定かでない。一般には、[[月山富田城]]の[[]](現在の[[島根県]][[安来市]][[広瀬町 (島根県)]])に生まれたとする。これは『[[太閤記]]』によって記載され<ref>『[[太閤記]]』巻十九「山中鹿助伝」。雲州富田之庄に於て出生。< name="shikanosukeden"/ref>、現在も屋敷跡が存在する。『[[雲陽軍実記]]』『後太平記』では[[鰐淵寺]]の[[]](現在の[[島根県]][[出雲市]][[別所町]])に生まれたと記載される<ref>『[[雲陽軍実記]]』第五巻「山中鹿之助漂泊、社寺宝物押領 並びに因伯度々合戦の事」。鰐淵寺の麓は鹿之助出生の地にて、即ち山中屋敷とてありける処なれば。< name="jikki5"/ref><ref>『後太平記』巻第四十「山中鹿之助品川狼介勝負之事」。雲州鰐淵山の麓、武蔵坊弁慶が育ちたる屋敷に生まれ。< name="gotaiheiki"/ref>。{{要出典範囲|同じく屋敷があった地が伝えられる<ref>現在は、会社の資材置き場となっている。</ref>|date=2015年11月}}。その他、[[信濃国|信濃]](長野県)の見上城で出生した説もある<ref>{{sfn|依田武勝『山中鹿之助-歴史新発掘-川中島合戦の落し子の生涯』(叢文社 2010年)P169。 </ref>|p=169}}
{{-}}
 
== 評価 ==
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;[[頼山陽]]
:'''嶽々(がくがく)たる驍名(ぎょうめい)、誰が鹿と呼ぶ、虎狼(ころう)の世界に麒麟(きりん)を見る'''<ref>「山中幸盛」と題する七言絶句(漢詩)より。「''山陰の麒麟児''」と呼ばれるゆえんとされる。(原文)「存孤杵臼何忘趙 乞救包胥暫託秦 ''嶽々驍名誰喚鹿 虎狼世界見麒麟''」</ref>(勇名をはせた幸盛(鹿介)は、鹿という名前であるけれども、誰が鹿と呼べようか。幸盛は戦国乱世(食うか食われるかの世界)の麒麟である)。
 
;[[勝海舟]]
:'''ここ数百年の史上に徴するも、本統の逆舞台に臨んで、従容として事を処理したる者は殆ど皆無だ。先づ有るというならば、山中鹿介と大石良雄であろう'''<ref>『[[氷川清話]]』第七章 世人百態より。</ref>(ここ数百年間の歴史を遡って見ても、本当の逆境に挑んで、慌てず落ち着いて処理した者はほとんどいない。もしいるとするなら、山中鹿介と[[大石良雄]]だろう)。
 
;[[板垣退助]]
:'''私は常に山中鹿之介なるものを愛するのであります。彼は尼子の忠臣でありまして、尼子の衰運回復すべからざる時に、身を致して顧みなかった男であります'''<ref>{{Refnest|group="注"|[[明治]]26年([[1893年]])12月29日、[[国会|議会]][[衆議院解散|解散]]の前日に、当時の[[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]][[党首|総理]](党首)であった板垣退助は以下のように話を続け、解散に屈してはならないと党員を激励した。「彼は常に'''七難八苦に遭わしめ給え'''と、三日月を拝したということであります。又彼の述懐に、'''憂きことの なおこの上に 積もれかし 限りある身の 力ためさん''' ということを申しております。彼の三日月を拝したというのは、如何なる意を以て拝したのであるかということは、出雲の人に就いて聞きましても分りませんが、私自ら解釈したつもりで居りまする。彼の満月となります時は必ず欠くるものである。彼の三日月の微々として雲間に光る処が、其不満なる有様、是れ士志の同感をなす処であるということでありまする」。<ref>{{Harvnb|米原正義 編『山中鹿介のすべて』(新人物往来社、1989年)P149。|p=149}}</ref>}}
 
;『[[陰徳太平記]]』
:尼子再興軍の大将は尼子勝久であったが、軍事計略のすべては幸盛の脳裏より出たものであった。数ヵ年間、山陰山陽に武威を振るい、寡兵で大軍に勝つこと数え切れないほどであった。その武名は天下に響き渡り、樵(きこり)の子供や猟師の老人までもが日常の会話にしたほどであった。しかし、果報にも限りがあるように、天運を使い果たして意味も無く誅されたことは無残であった<ref>『[[陰徳太平記]]』巻第五十六 山中鹿の助最後の事 より。<name="intoku56"/ref>。
;『中国兵乱記』<ref group="注">元和元年(1615年)、賀陽郡刑部郷経山城主であった中島大炊助元行が、自己の体験した合戦とその功績を子孫に残すため著したもの。</ref>
 
:武勇の達人として天下にその名を知られていたが、天命を全うできず、39歳で討ち滅ぼされ、名を後世に残した。惜しまない者はなかった<ref name="heiranki"/>。
;『中国兵乱記<ref>元和元年(1615年)、賀陽郡刑部郷経山城主であった中島大炊助元行が、自己の体験した合戦とその功績を子孫に残すため著したもの。</ref>』
:武勇の達人として天下にその名を知られていたが、天命を全うできず、39歳で討ち滅ぼされ、名を後世に残した。惜しまない者はなかった<ref>『中国兵乱記』四の巻 山中鹿之助が誅せられた事 より。</ref>。
 
;『[[名将言行録]]』
:幸盛の勇力は抜群であり、才智にも長けていた。当時の人は幸盛を「'''[[楠木正成]]より勝る'''」と言って褒めたたえた。そのため、七重八重に取り囲んだ敵も幸盛の姿を見ると皆退却した。また、幸盛が城に籠もると敵は和談して戦いを避けた<ref>『名将言行録』巻三 山中幸盛 より。「幸盛、勇力群を絶し、才智兼備せり。時人幸盛を稱して、楠木正成にも勝りしなんど言へり。去ればにや、七重八重取囲みたる敵も、幸盛の印を出だせば、皆悉退却れり。幸盛だに籠れば、和談して無事を為すと曰ふ」< name="genkouroku"/ref>。
:主家再興を自らの使命とし、各地をさ迷いながらも幾度の苦難を乗り越え、兵を起し戦い続けた。その道のりは厳しく、100度打ちのめされ、1000回挫折を味わうものであったが、進むことはあっても退くことはなかった。最後は志半ばで倒れてしまったが、その義勇の名は一時天下に鳴り響いた<ref name="genkouroku"/>。
 
:主家再興を自らの使命とし、各地をさ迷いながらも幾度の苦難を乗り越え、兵を起し戦い続けた。その道のりは厳しく、100度打ちのめされ、1000回挫折を味わうものであったが、進むことはあっても退くことはなかった。最後は志半ばで倒れてしまったが、その義勇の名は一時天下に鳴り響いた<ref>『名将言行録』巻三 山中幸盛 より。「幸盛流離顛沛の身を以って兵を起し、主家を興復する事を己が任と為し、崎嶇間關、百挫千折すと雖も進むことあって、退くことなし。竟に志業成らずして死すと雖も、一時義勇の名天下を震動せり」</ref>。
 
== 人物・逸話 ==
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=== 容貌 ===
勇猛な美男子であったとされる幸盛であるが、その容貌については諸説がある。
;『[[雲陽軍実記]]』(19歳 、品川将員との一騎討ちの時)
 
:背丈は5尺あまりと見えて中肉で色白く、容貌がすぐれた男であった<ref name="jikki4-3">『[[雲陽軍実記]]』第四巻 山中鹿之助、品川大膳、富田川中嶋合戦の事 より</ref>。
:;『[[雲陽軍実記]]』(19歳 、品川将員との一騎討ちの時)
;『[[太閤記]]』(幼少期)
::背丈は5尺あまりと見えて中肉で色白く、容貌がすぐれた男であった<ref>『[[雲陽軍実記]]』第四巻 山中鹿之助、品川大膳、富田川中嶋合戦の事 より。「其の骨柄五尺余りと見えて、中肉、色白く、風俗美しき男」</ref>。
:普通の子供とは容姿が違っていて、眼光がすぐれ、手足も太く逞しかった。幼いながらもその立ち振る舞いは、たいそうきっぱりしていて、不敵にすらあった<ref name="shikanosukeden"/>。
 
:;『[[太閤記名将言行録]]』(幼少期(34歳、死亡時
:幸盛は討ち取られたとき、たいへん立派な髭を生やしていた。その髭は、針先のように鋭く尖って非常に堅く、障子を突くと簡単に貫くほどであった<ref name="genkouroku"/>。
::普通の子供とは容姿が違っていて、眼光がすぐれ、手足も太く逞しかった。幼いながらもその立ち振る舞いは、たいそうきっぱりしていて、不敵にすらあった<ref>『[[太閤記]]』巻十九 山中鹿助伝 より。「尋常の児童には面がはりし、眼ざし一廉有て手足太ふ逞しく、おさなわざも大さはやかに、ふてきにも有りし」</ref>。
 
:;『[[名将言行録]]』(34歳、死亡時)
::幸盛は討ち取られたとき、たいへん立派な髭を生やしていた。その髭は、針先のように鋭く尖って非常に堅く、障子を突くと簡単に貫くほどであった<ref>『[[名将言行録]]』巻三 山中幸盛 より。「幸盛鬚髯甚だ壯なり。其の鬚莖を以て窓紙を鑽すに穿つこと鍼の如し」</ref>。
 
=== 鎧冑の姿 ===
幸盛は'''三日月の前立てに鹿の角の脇立ての冑'''をした姿でよく知られる。講談や小説などにおいてもこの姿で描かれることが多い。月山富田城跡に建つ、幸盛の銅像もこの姿で作成されている。通説では、この冑は山中家に先祖代々から伝わるもので、幸盛が家を継ぐにあたって譲られたとされる。しかし『[[太閤記]]』や『[[雲陽軍実記]]』などの軍記資料によると、その冑の様相は多少異なる。
 
:;『[[太閤記]]』
:: 「16歳の春、半月の前立てがある冑をつけていた」と記載され、鹿の角の脇立ての描写はなく、前立ても三日月でなく半月である<ref>『太閤記』巻十九 山中鹿助伝 より。「十六歳の春、甲の立物に半月をしたりける」<name="shikanosukeden"/ref><ref>『[[名将言行録]]』巻三 山中幸盛 より。「十六歳の春冑の立物に半月をしたりける」<name="genkouroku"/ref>。
;『[[雲陽軍実記]]』・『[[陰徳太平記]]』
 
:「赤糸縅(おど)しの鎧に、牡鹿の角を備えた冑をしていた。その牡鹿の角は、銀粉で装飾され5節に分かれていた」と記載され、鹿の角の立物はあるが、三日月の前立ての記載はない<ref name="jikki4-3"/><ref>『陰徳太平記』巻三十九「 山中鹿の助品川狼の助合戦之事」より。「赤糸縅しの鎧に小男鹿の五鎖打たる角を、銀にて泥みて卓物とし・・・」</ref>。
:;『[[雲陽軍実記]]』・『[[陰徳太平記]]』
;『[[名将言行録]]』
::「赤糸縅(おど)しの鎧に、牡鹿の角を備えた冑をしていた。その牡鹿の角は、銀粉で装飾され5節に分かれていた」と記載され、鹿の角の立物はあるが、三日月の前立ての記載はない<ref>『[[雲陽軍実記]]』第四巻 山中鹿之助、品川大膳、富田川中嶋合戦の事 より。「赤糸縅しの鎧に男鹿の五鎖懸けたる角を銀にて卓物したる甲を着・・・」</ref><ref>『陰徳太平記』巻三十九 山中鹿の助品川狼の助合戦之事 より。「赤糸縅しの鎧に小男鹿の五鎖打たる角を、銀にて泥みて卓物とし・・・」</ref>。
:『[[太閤記]]』に記載される「半月の前立がある冑」の描写ほかに、幸盛が病弱であった兄から冑を譲り受ける記載がある。その冑は「長さ6尺の鹿の双角を前立てに挿めていた」とあり、冑に備え付けられた鹿の角は、脇立ではなく前立てにあったと記載している<ref name="genkouroku"/>。
 
:;『[[名将言行録]]』
::『[[太閤記]]』に記載される「半月の前立がある冑」の描写ほかに、幸盛が病弱であった兄から冑を譲り受ける記載がある。その冑は「長さ6尺の鹿の双角を前立てに挿めていた」とあり、冑に備え付けられた鹿の角は、脇立ではなく前立てにあったと記載している<ref>『[[名将言行録]]』巻三 山中幸盛 より。「鹿双角長六尺なるを冑額に挿めり」</ref>。
 
=== 鹿介という名 ===
幸盛の通称(字)、'''鹿介'''の命名についての逸話がある。幸盛の幼名は甚次郎といい、病弱な兄に代わって家督を継ぐときに改名して鹿介と称した。一般には、このとき譲り受けた冑に三日月の前立てと'''鹿の角の脇立'''がついていたため、冑にちなんで名前を鹿介と改めたとされる。その他には、山の中で鹿の如く走り廻る姿を見て名前を鹿介としたとする説<ref>{{sfn|依田武勝 著『山中鹿之助-歴史新発掘-川中島合戦の落し子の生涯』P177より。根拠となる資料の詳細は不明。</ref>|p=177}}などもあるが、軍記資料に残る改名の理由は次のとおりである。
 
:;『[[太閤記]]』
::長月(9月)のある日、甚次郎(幸盛)は同輩の秋宅甚介と寺本半四郎と共に夜番をしていた。甚次郎は退屈していたので「苗字にちなんで名前を変えてみようではないか」と両友にもちかけた。2人も「なるほど、それは良いことだ」と言って了解したので、3人はそれぞれ、山中鹿介、秋宅庵之助、寺本障子之助と名乗るようになった<ref>『[[太閤記]]』巻十九 山中鹿助伝 より。「長月比、夜番のつれづれに、秋宅甚介と寺本半四郎に氏姓に因みて名をかへてんやと有りしかば、尤も宜しからんとて、山中鹿介、秋宅庵之助、寺本障子之助とぞ名乗ける」< name="shikanosukeden"/ref>。
;『[[名将言行録]]』
 
:あるとき、甚次郎(幸盛)は兄の甚太郎から、長さ6尺の鹿の双角を前立てに備えた冑を譲り受けた。甚次郎はその冑を身につけ戦場に出ると、人はその威風堂々とした姿を見てたちまち恐れ服した。これにより、幸盛は自らを鹿之助(鹿介)と称するようになった<ref name="genkouroku"/>。
:;『[[名将言行録]]』
::あるとき、甚次郎(幸盛)は兄の甚太郎から、長さ6尺の鹿の双角を前立てに備えた冑を譲り受けた。甚次郎はその冑を身につけ戦場に出ると、人はその威風堂々とした姿を見てたちまち恐れ服した。これにより、幸盛は自らを鹿之助(鹿介)と称するようになった<ref>『[[名将言行録]]』巻三 山中幸盛 より。「幸盛の兄を甚太郎と曰ふ、常に鹿双角長六尺なるを冑額に挿めり。後に之を幸盛に與(与)ふ、幸盛身體壯大冑して陣に臨むに、人其巍然たるを見て輙ち恐れ服す、依て鹿之助と稱す」</ref>。
 
=== 所持品 ===
* 総長約264cm(刃長172.0cm、反り3.0cm、茎長 92.0cm)の[[石州]][[大太刀]](石州和貞 作)を使用していたとされ、[[大山祇神社]]へこの太刀を[[奉納]]している。現在もこの太刀は大山祇神社に展示され、観覧することができる。
* [[上月城]]落城後、[[吉川元春]]に投降した際に所持していたと伝わる[[兜]]「鉄錆十二間筋兜(てつさびじゅうにけんすじかぶと)」が現存する。護符を兜の中に入れて用いたと伝えられ、現在は吉川史料館に展示されている。
 
*「荒身国行の太刀<ref>鎌倉時代中期の京の刀工「来国行」作の太刀。</ref>」を所持していた<ref name="katsura"/>。阿井の渡しで殺害された時に持参しており、その後は[[毛利輝元]]が所持した<ref>『老翁物語』より。</ref>{{Refnest|group="注"|『桂岌圓覚書』の内容に加え、幸盛が頸にかけた袋の中に「大海のつぼ(茶入れ)」を持っていたこと、及びこれら太刀と茶入れは毛利輝元に献上され「荒身国行の太刀」については輝元が所持したことが記載されている。『陰徳太平記』・『後太平記』にも同様の内容が記載<ref name="intoku56"/><ref>『後太平記』巻第四十二「山中鹿之助被誅事」</ref>。後に輝元から[[豊臣秀吉]]に献上されたとされる。}}。
*[[上月城]]落城後、[[吉川元春]]に投降した際に所持していたと伝わる[[兜]]「鉄錆十二間筋兜(てつさびじゅうにけんすじかぶと)」が現存する。[[お守り|護符]]を兜の中に入れて用いたと伝えられ、現在は吉川史料館に展示されている。
 
*「荒身国行の太刀<ref>鎌倉時代中期の京の刀工「来国行」作の太刀。</ref>」を所持していた<ref>『桂岌圓覚書』 誰々見候ても常の刀にあらず候。あらみ国行を鹿介持ちたる由内々取沙汰候。</ref>。阿井の渡しで殺害された時に持参しており、その後は[[毛利輝元]]が所持した<ref>『老翁物語』より。『桂岌圓覚書』の内容に加え、幸盛が頸にかけた袋の中に「大海のつぼ(茶入れ)」を持っていたこと、及びこれら太刀と茶入れは毛利輝元に献上され「荒身国行の太刀」については輝元が所持したことが記載されている。『陰徳太平記』(巻五十六「山中鹿の助最後の事」)・『後太平記』(巻第四十二「山中鹿之助被誅事」)にも同様の内容が記載。後に輝元から[[豊臣秀吉]]に献上されたとされる。</ref>。
 
*『享保名物帳』 によると、天下五剣の1つ「[[三日月宗近]]」を一時所持したとされる<ref>『享保名物帳』 下巻 「宗近、國近、國俊、國次、長谷部、信國、了戒、當麻、包永、貞宗の部」。</ref>。
 
=== 武勇 ===
* 「[[尼子十勇士]]」の筆頭とされる<ref group="注">『[[名将言行録]]』によれば、尼子十勇士とは、尼子晴久が部下4万人余りの中から選び出した、勇力の優れた10人の人物と記載する。その中でも幸盛を第一とした。</ref>。 また、尼子武将の中で特に智勇・忠義に優れた3人<ref group="注">山中鹿介、立原源太兵衛、熊谷新右衛門の3人。</ref>、「尼子三勇士」(「尼子三傑」)の1人とされる<ref>『[[雲陽軍実記]]』第四巻 山中鹿之助、品川大膳、富田川中嶋合戦の事 より。< name="jikki4-3"/ref>。
* 山名軍で猛将として知られた菊池音八や、高野監物、有名な品川将員との闘い、松永久秀配下の河合将監をいずれも一騎討ちで討ち取っている。
 
* 首供養を2度行っている<ref name="武将感状記">『[[武将感状記]]』巻の四「山中鹿之助の述懐」。</ref><ref name="genkouroku"/>。首供養は、33の首級を挙げたら1回行う。つまり、34歳の生涯で66以上の首級を挙げたことになる。
山名軍で猛将として知られた菊池音八や、高野監物、有名な品川将員との闘い、松永久秀配下の河合将監をいずれも一騎討ちで討ち取っている。
* 幸盛は、生まれて数ヶ月で4・5歳の子供のように見え、2・3歳頃には武勇と智略が優れ遊戯も普通の子供と異なり、8歳のとき人を討った<ref name="gotaiheiki"/>。10歳の頃から弓馬・軍法を学び、13歳のときに敵を討ち取って手柄をたてた。成長するにつれ、器量は世に超え、心は強く深謀遠慮、人を賞するにあたって依怙贔屓(えこひいき)がなかった<ref name="shikanosukeden"/><ref name="genkouroku" />。
 
* 16歳のある春の日、幸盛は「'''今日より30日以内に武勇の誉れ(戦功)を挙げたい'''」と'''[[三日月]]'''に祈った。ほどなくして、主君の[[尼子義久]]が[[山名氏]]の伯耆尾高城を攻め、幸盛もこれに随行する。この戦いで幸盛は、因伯(現在の[[鳥取県]])に鳴り響く豪傑、菊池音八を[[一騎討ち]]で討ち取り戦功を挙げる。このため幸盛は、これより一生の間、三日月を信仰したという<ref name="shikanosukeden"/><ref name="genkouroku" />。
首供養を2度行っている<ref name="武将感状記">『[[武将感状記]]』巻の四「山中鹿之助の述懐」。</ref><ref name="名将言行録">『[[名将言行録]]』巻之三 山中幸盛より。</ref>。首供養は、33の首級を挙げたら1回行う。つまり、34歳の生涯で66以上の首級を挙げたことになる。
* 毛利軍が月山富田城を攻めた際に、幸盛が1人で毛利軍約40人と戦い、19人を討ち取り、残りの軍勢も撃退した逸話がある。[[永禄]]5年([[1562年]])、毛利軍は[[出雲国|出雲]]へ攻め入り、尼子軍拠点の月山富田城を包囲する。幸盛が1人城下の民家で休息していると、毛利軍の兵30~40騎余が攻め寄せてきた。幸盛は民家から出ると、最初に乗り駆けてきた2人の兵を切って落とし<ref group="注">幸盛が最初の兵を切って落とすと、次の兵は馬から降り立ち、3尺5寸の太刀を抜いて向かってきた。幸盛は「やさしのおのこや(けなげな奴だ)」と言って、おがみぎりに切ると、相手は微塵になって谷底へ転がり落ちていった。</ref>、続いて来た兵も乱戦して16・17人を討ち取った。残った兵も幸盛1人で切り立てて撃退している。撃退後、幸盛は民家の年老いた尼に「飯はないか」と言って尋ね、出された椎の葉に盛られた飯を食べ、富田月山城へ帰った<ref name="shikanosukeden"/><ref name="genkouroku" />。
 
* 尼子氏が滅亡し、幸盛が諸国を放浪していた時の逸話がある。あるとき、幸盛が一晩の宿を借りて寺に泊まったていた際、盗賊14人が寺を襲ってきた。幸盛は謀略を用い、1人で盗賊すべてを生け捕りにしてしまった。盗賊は「今まで盗みをすること約100回、戦いも70回あまり行いましたが、このようなことは初めてです。名前を教えてください」と尋ねたが、幸盛は「何を言う、さっさと去れ」と言って<ref group="注">神仏がご覧になっている前で殺生は良くないと思い、寺の住職と相談して盗賊は解放することにしていた。</ref>、名前を告げずに立ち去った<ref name="genkouroku" />。
幸盛は、生まれて数ヶ月で4・5歳の子供のように見え、2・3歳頃には武勇と智略が優れ遊戯も普通の子供と異なり、8歳のとき人を討った<ref>『[[太閤記]]』には記載がない。</ref>。10歳の頃から弓馬・軍法を学び、13歳のときに敵を討ち取って手柄をたてた。成長するにつれ、器量は世に超え、心は強く深謀遠慮、人を賞するにあたって依怙贔屓(えこひいき)がなかった<ref name="太閤記-鹿助伝">『[[太閤記]]』巻十九 山中鹿助伝 より。</ref><ref name="名将言行録" />。
* 品川大膳との一騎討ちについては、史料により異同がある。尼子側の記述『[[雲陽軍実記]]』や『[[太閤記]]』では、品川は弓を使って鹿介を攻撃しようとしたが、尼子氏の武将に弓を用いて邪魔をされ失敗し、鹿介と品川は接近戦を行い、一進一退の攻防の末に鹿介が品川を見事に討ち取ったと記されている。毛利側の資料『[[陰徳太平記]]』では、品川が優勢に勝負を進め、鹿介は追い詰められたが僚友の[[秋上宗信]]の助力で勝ったと記されている。史料によって異同があり事実は不明であるが、参考として史料の成立としては『雲陽軍実記』の方が『陰徳太平記』より100年前後古く、『太閤記』は『陰徳太平記』より数十年早く執筆されている。なお、それぞれの史書は、その成立上の経緯もあり、歴史上の事実とは異なる部分も多く、一次資料としての信憑性については、各項目を参照のこと(詳細は「[[山中幸盛・品川将員の一騎討ち]]」を参照)。
 
16歳のある春の日、幸盛は「'''今日より30日以内に武勇の誉れ(戦功)を挙げたい'''」と'''[[三日月]]'''に祈った。ほどなくして、主君の[[尼子義久]]が[[山名氏]]の伯耆尾高城を攻め、幸盛もこれに随行する。この戦いで幸盛は、因伯(現在の[[鳥取県]])に鳴り響く豪傑、菊池音八を[[一騎討ち]]で討ち取り戦功を挙げる。このため幸盛は、これより一生の間、三日月を信仰したという<ref name="太閤記-鹿助伝" /><ref name="名将言行録" />。
 
毛利軍が月山富田城を攻めた際に、幸盛が1人で毛利軍約40人と戦い、19人を討ち取り、残りの軍勢も撃退した逸話がある。[[永禄]]5年([[1562年]])、毛利軍は[[出雲国|出雲]]へ攻め入り、尼子軍拠点の月山富田城を包囲する。幸盛が1人城下の民家で休息していると、毛利軍の兵30~40騎余が攻め寄せてきた。幸盛は民家から出ると、最初に乗り駆けてきた2人の兵を切って落とし<ref>幸盛が最初の兵を切って落とすと、次の兵は馬から降り立ち、3尺5寸の太刀を抜いて向かってきた。幸盛は「やさしのおのこや(けなげな奴だ)」と言って、おがみぎりに切ると、相手は微塵になって谷底へ転がり落ちていった。</ref>、続いて来た兵も乱戦して16・17人を討ち取った。残った兵も幸盛1人で切り立てて撃退している。撃退後、幸盛は民家の年老いた尼に「飯はないか」と言って尋ね、出された椎の葉に盛られた飯を食べ、富田月山城へ帰った<ref name="太閤記-鹿助伝" /><ref name="名将言行録" />。
 
尼子が滅亡し、幸盛が諸国を放浪していた時の逸話がある。あるとき、幸盛が一晩の宿を借りて寺に泊まったていた際、盗賊14人が寺を襲ってきた。幸盛は謀略を用い、1人で盗賊すべてを生け捕りにしてしまった。盗賊は「今まで盗みをすること約100回、戦いも70回あまり行いましたが、このようなことは初めてです。名前を教えてください」と尋ねたが、幸盛は「何を言う、さっさと去れ」と言って<ref>神仏がご覧になっている前で殺生は良くないと思い、寺の住職と相談して盗賊は解放することにしていた。</ref>、名前を告げずに立ち去った<ref name="名将言行録" />。
 
品川大膳との一騎討ちについては、史料により異同がある。尼子側の記述『[[雲陽軍実記]]』や『[[太閤記]]』では、品川は弓を使って鹿介を攻撃しようとしたが、尼子氏の武将に弓を用いて邪魔をされ失敗し、鹿介と品川は接近戦を行い、一進一退の攻防の末に鹿介が品川を見事に討ち取ったと記されている。毛利側の資料『[[陰徳太平記]]』では、品川が優勢に勝負を進め、鹿介は追い詰められたが僚友の[[秋上宗信]]の助力で勝ったと記されている。史料によって異同があり事実は不明であるが、参考として史料の成立としては『雲陽軍実記』の方が『陰徳太平記』より100年前後古く、『太閤記』は『陰徳太平記』より数十年早く執筆されている。なお、それぞれの史書は、その成立上の経緯もあり、歴史上の事実とは異なる部分も多く、一次資料としての信憑性については、各項目を参照のこと(詳細は「[[山中幸盛・品川将員の一騎討ち]]」を参照)。
 
=== 武辺への助言・判断 ===
* 明智光秀の家臣であった野々口丹波が、幸盛に一騎討ちについて尋ねた逸話がある。野々口は「自分は一騎討ちを3度行い首級をあげましたが、その時の様子は良く分からず朦朧としたものです。しかし世の中には、たった1度の戦いで詳細に覚えている者もいます。その人は生まれつき勇気があるのでしょうか」と幸盛に尋ねた。幸盛はたいへん感心し、「あなたは正直な人だ。言葉を飾り、嘘をついて名をあげようとする人が多い世の中にあってはめずらしい人だ。自分も4~5個の首級をあげたときは、あなたと同じだった。7~8個のときに夜が明けたようになり、10個の首をとることには、敵の内冑を突いた場所までよく見え、子供の遊びのように杖で討ち倒すことができた。あなたも経験を重ねれば、自分の言ったことが分かるだろう」と答えた<ref name="武将感状記" /><ref name="名将言行録genkouroku" />。
* 明智光秀の家臣であった野々口彦助(野々口丹波と同一人物か?)が、幸盛に功名をあげる方法を尋ねた逸話がある。幸盛は「合戦の前には必ず目が見えなくなるものだ。よく心得ておかれよ」と言ったが、彦助は最初それほどのこととも思わなかった。しかし、朝霧がなびいて物の色も区別がつかない戦場に立ったとき、彦助は幸盛が教えたことを思い出した。「ここで目が見えないのは私が気おくれしているからだろう」心を静めるため目をふさぎ、そして目を開くと、心もさわやかに目もはっきり見えたので、みごと敵の首を取って功名をあげたとされる<ref>『常山紀談』巻十一による</ref>。
 
* 若武者が将来勇敢な武士になれるかどうか、幸盛が判断する逸話がある。ある日、初陣を終えた2人の若者が幸盛にそれぞれ話しかけた。ひとりは「敵に向かうと震えが生じて、しっかり敵を見ることもできず、討ち取った敵がどんな鎧であったかも覚えていません」と話した。別のひとりは「自分はそうではありません。敵がどんな鎧を着て、どんな馬に乗り、組み合った場所など鮮明に覚えています」と話した。2人が帰った後、幸盛は傍の人にこう語った。「最初に話した若武者は、立派で勇敢な武士になるだろう。後に話した若武者は、はなはだ心もとない。もしかしたら、他人のあげた敵の首を拾い取って自分の手柄としたのではないだろうか。さもなくば、次の戦で討たれてしまうだろう」はたして後日、その言葉のとおりとなった<ref>『耳嚢』巻一による。</ref>。
明智光秀の家臣であった野々口彦助(野々口丹波と同一人物か?)が、幸盛に功名をあげる方法を尋ねた逸話がある。幸盛は「合戦の前には必ず目が見えなくなるものだ。よく心得ておかれよ」と言ったが、彦助は最初それほどのこととも思わなかった。しかし、朝霧がなびいて物の色も区別がつかない戦場に立ったとき、彦助は幸盛が教えたことを思い出した。「ここで目が見えないのは私が気おくれしているからだろう」心を静めるため目をふさぎ、そして目を開くと、心もさわやかに目もはっきり見えたので、みごと敵の首を取って功名をあげたとされる<ref>『常山紀談』巻十一による</ref>。
 
若武者が将来勇敢な武士になれるかどうか、幸盛が判断する逸話がある。ある日、初陣を終えた2人の若者が幸盛にそれぞれ話しかけた。ひとりは「敵に向かうと震えが生じて、しっかり敵を見ることもできず、討ち取った敵がどんな鎧であったかも覚えていません」と話した。別のひとりは「自分はそうではありません。敵がどんな鎧を着て、どんな馬に乗り、組み合った場所など鮮明に覚えています」と話した。2人が帰った後、幸盛は傍の人にこう語った。「最初に話した若武者は、立派で勇敢な武士になるだろう。後に話した若武者は、はなはだ心もとない。もしかしたら、他人のあげた敵の首を拾い取って自分の手柄としたのではないだろうか。さもなくば、次の戦で討たれてしまうだろう」はたして後日、その言葉のとおりとなった<ref>『耳嚢』巻一による。</ref>。
 
=== 心遣い ===
* [[隠岐為清]]らが美保関で反乱を起こした際([[美保関の合戦]])、幸盛らはこれを制圧するため攻めるが、為清に反撃され窮地に追い込まれる。その後、横道兄弟(横道高光、横道高宗)、[[松田誠保]]らが救援に駆けつけ奮戦、結果、為清を捕縛しこの戦いに勝利した。この時[[尼子勝久]]は幸盛らに遠慮して、横道らに感状を出すことを差し控えていた。しかし幸盛は「この合戦で彼らの加勢がなければ、自分の一命はなかったことでしょう。緒戦に敗れた我々に遠慮することはありません。賞罰は明らかにし、政道に依怙贔屓 (えこひいき)があってはなりません」と勝久を諫め、早々に感状を渡すよう言上した。勝久はこれを喜び、すぐに横道らに感状を渡したとされる<ref name="陰徳太平記">『[[陰徳太平記]]』より。</ref><ref name="雲陽軍実記">『雲陽軍実記』より。</ref><ref name="名将言行録genkouroku" />。
* [[明智光秀]]の家臣であった野々口丹波が、幸盛を我が家へ招待するときの逸話がある。野々口が幸盛を我が家へ招待した後に、光秀からも「風呂を炊いたから家に来ないか」と招待があった。野々口の家はあばら家であったが、幸盛は「野々口と先約があるので、いけません」と笑って光秀に答えた。光秀もまた笑って、「幸盛をこれで招待してやれ」と野々口に言い、雁1羽と鮭1尾を授けた<ref name="武将感状記" /><ref name="genkouroku" />。
 
[[明智光秀]]の家臣であった野々口丹波が、幸盛を我が家へ招待するときの逸話がある。野々口が幸盛を我が家へ招待した後に、光秀からも「風呂を炊いたから家に来ないか」と招待があった。野々口の家はあばら家であったが、幸盛は「野々口と先約があるので、いけません」と笑って光秀に答えた。光秀もまた笑って、「幸盛をこれで招待してやれ」と野々口に言い、雁1羽と鮭1尾を授けた<ref name="武将感状記" /><ref name="名将言行録" />。
 
[[File:Yamanaka Yukimori Kaou.svg|thumb|山中幸盛の[[花押]]。[[天正]]6年7月8日 遠藤勘介宛書状より。]]
* 幸盛から配下の遠藤勘介に宛てた書状が残っている。捕らえられ、阿井の渡しで殺害されるまでの間に書かれた、幸盛の最後の書状とされる。「'''永々牢を遂げられ、殊に当城籠城の段、比類無く候。向後において、いささかも忘却有るまじく候。然れば、何くへなりとも、御奉公あるべく候 恐々謹言'''」<ref>(原文)「永々被遂牢、殊当城籠城之段無比類候、於向後聊忘却有間敷候、然者何へ成共可有御奉公候 恐々謹言 七月八日 幸盛(花押) 〆進藤勘介殿 山鹿」</ref>(「長い間の牢人生活を終えられ、特にこの前の籠城戦(上月城の戦い)では、比類の無い戦いぶりでした。このことは今後一生忘れません。これからは何処へでも奉公されますように、恐れながら謹んで申し上げます」)。
 
=== その他 ===
* 幸盛の母、山中なみはたいへんな賢母であったとされる<ref group="注">崔元暉、呂栄公の母にも劣らないと記載される。</ref>。幸盛の父は若くして亡くなったため、なみ1人の手で幸盛は育てられた。稼ぎ手がいなかったため家は貧しく、衣服を買うお金に困るほどであった。そのため、自ら畑で麻を育て、その麻で幸盛に服を作っていたが、自分はぼろぼろな服を着て生活していた。また、同じように貧しい子供がいれば、服を与え、宿泊させ、食事をふるまった。世話になった子供らは皆これに感心し、大きくなってから幸盛に協力するようになったとされる<ref name="太閤記-鹿助伝shikanosukeden" /><ref>『[[陰徳太平記]]』巻五十六 山中鹿の助最後の事 より。<name="intoku56"/ref><ref name="名将言行録genkouroku" />。
** 山中なみの教育についての逸話がある。なみは幸盛に対し「そなたに従う人々と苦楽を共にしなさい。戦いに敗れたときに仲間を見殺しにしたり、また手柄を独り占めにするようなことをしてはいけません。」と言って教えた。幸盛も常にその言葉を忘れず、教えに従ったとされる<ref name="shikanosukeden" /><ref name="genkouroku"/>。
 
毛利軍の将、[[神西元通]]を寝返らせ仲間にしたときの逸話がある。幸盛が[[尼子勝久]]を擁して[[出雲国|出雲]]へ攻め入ったとき、元通は[[伯耆国|伯耆]]の末石城の城番をしていた<ref group="注">元通は以前尼子家に使えていたが、永禄6年([[1564年]])の[[月山富田城の戦い]]のときに降伏して、以後毛利氏に従っていた。</ref>。尼子時代に元通と旧交のあった幸盛は、元通を味方にしたいと考え、まずその心情を探ろうと計画する。幸盛は元通に禅僧を遣わすと、今の心情を扇に書くようお願いする<ref group="注">禅僧は「幸盛殿と元通殿は現在敵味方に分かれていますが、幸盛殿は元通殿と旧交忘れがたく、貴殿をなにかと心配しておられます。貴殿がご健在であることをお伝えしますので、この扇に何か一筆お書きください。持ち帰って幸盛殿に見せれば安心なさるでしょう」と言って元通へお願いした。</ref>。元道は「'''ふるから小野の 元柏(もとがしわ)'''」とだけ記し禅僧に渡すと、幸盛にこの扇を届けるよう伝える。届いた扇を見た幸盛は「これは『'''いそのかみ ふるから小野の 元柏 元の心は わすられなくに'''』<ref group="注">意味は「古い枯れた幹ばかりの野に 古くからある柏 その柏のように 以前からの気持ちを忘れてはいません」。古今和歌集 巻第十七 雑歌上886 題知らず よみ人知らず</ref>という古歌の一節だ。元通も尼子のことが忘れられないだろう」と考え、再び禅僧を元道へ遣わし、尼子に味方するようお願いする。はたして元通はお目付け役の中原善左衛門を切り、尼子再興軍に味方することとなった。なお、元通はその後上月城落城まで付き従い、尼子勝久と共に切腹し自害している<ref name="jikki5-2"/><ref>『陰徳太平記』巻四十三 神西三郎左衛門志を変する事 より。</ref><ref name="genkouroku" />。
山中なみの教育についての逸話がある。なみは幸盛に対し「そなたに従う人々と苦楽を共にしなさい。戦いに敗れたときに仲間を見殺しにしたり、また手柄を独り占めにするようなことをしてはいけません。」と言って教えた。幸盛も常にその言葉を忘れず、教えに従ったとされる<ref name="太閤記-鹿助伝" /><ref name="名将言行録" />。
敵軍に敗れ捕虜となった幸盛が、[[厠]]から逃げ出す逸話がある。尼子氏滅亡後、幸盛は尼子家再興を目指し出雲で戦いを繰り広げていたが、敗れて末吉城で降伏することとなる。その後、尾高城へ幽閉されることとなった幸盛は「赤痢になった」と偽って何度も厠へ通い<ref group="注">『雲陽軍実記』では昼夜70~80回。『陰徳太平記』では一晩に170~180回厠に通ったと記載。</ref>、あまりの頻度に付き添っていた監視役が付いてこなくなると、その隙を突いて逃げ出すこと<ref group="注">『雲陽軍実記』では、厠の透垣(板と板、または竹と竹との間を少し透かしてつくる[[垣根]])を乗り越え、底樋(ため池などの底の水を取水する[[樋 (土木)|樋]])の[[水門]]を抜けて逃げたと記載。『陰徳太平記』では、 厠の樋を游り(くくり)て逃げ出したと記載。</ref>に成功したという<ref>『雲陽軍実記』 第五巻 「毛利元就公病死、山中鹿之助偽りて降参、並びに勝久公隠州落ちの事」。</ref><ref>『陰徳太平記』 巻第四十八 「山中鹿の助出奔 付り 尼子勝久走於隠州に逃之事」。</ref>。
 
[[天正]]6年7月([[1578年]]8月)、幸盛の籠もっていた上月城は毛利軍に攻められ、援軍の[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]軍が撤退したこともあり、毛利氏に降伏することになる。幸盛は降伏に際し、[[尼子勝久]]の助命を再三にわたり毛利軍の[[吉川元春]]・[[小早川隆景]]に申し立てたが、両将は「勝久が切腹しなければ、城内の者を悉く皆殺しにする」と言って許さなかった。万策尽きた幸盛は、勝久に向かい涙を流しながら「 このたびは殿の命を救うため再三にわたって申し立てしましたが、元春・隆景は承知しませんでした。この上は、力なく武運も尽きたと思って御自害ください。自分もお供するのは当然ですが、特に敵の吉川元春は憎い仇なので、偽って降参し近くに寄ったとき刺し違え、当家多年の鬱憤を晴らすつもりです。命を惜しみ不義の降人と思われるのは口惜しいですが、すぐに三途の川で追いつき、その時こそ忠義に嘘偽りのないことをお示しします」と申し立てた。それに対し、勝久は「自分は、普通なら法衣を纏い抖藪[[行脚]](とそうあんぎゃ)をして生涯を終える身なのに<ref group="注">勝久は当初、京都の東福寺の僧であった。</ref>、一時的とはいえ尼子家の大将として数万の軍勢を率いることができた。わずかな期間であったが良い夢を見させてもらった。今ここに自害するに及んで何の恨みがあるだろうか。ましてや、自分が死ぬことで部下の命が助かるならば、むしろ大将としては幸いなことだ。また、元春と刺し違えて仇をとることはたいへん立派なことだが、元春は智勇に優れておりそのような機会は訪れないだろう。それよりは、生き長がらえ、別の尼子庶子を探し出し、その者を大将として助け、尼子の再興を目指して欲しい」と言って幸盛に別れを告げた<ref>『陰徳太平記』巻五十六 上月城没落 付 勝久自害の事 より。</ref>。
毛利軍の将、[[神西元通]]を寝返らせ仲間にしたときの逸話がある。幸盛が[[尼子勝久]]を擁して[[出雲国|出雲]]へ攻め入ったとき、元通は[[伯耆国|伯耆]]の末石城の城番をしていた<ref>元通は以前尼子家に使えていたが、[[1564年]]([[永禄]]6年)の[[月山富田城の戦い]]のときに降伏して、以後毛利氏に従っていた。</ref>。尼子時代に元通と旧交のあった幸盛は、元通を味方にしたいと考え、まずその心情を探ろうと計画する。幸盛は元通に禅僧を遣わすと、今の心情を扇に書くようお願いする<ref>禅僧は「幸盛殿と元通殿は現在敵味方に分かれていますが、幸盛殿は元通殿と旧交忘れがたく、貴殿をなにかと心配しておられます。貴殿がご健在であることをお伝えしますので、この扇に何か一筆お書きください。持ち帰って幸盛殿に見せれば安心なさるでしょう」と言って元通へお願いした。</ref>。元道は「'''ふるから小野の 元柏(もとがしわ)'''」とだけ記し禅僧に渡すと、幸盛にこの扇を届けるよう伝える。届いた扇を見た幸盛は「これは『'''いそのかみ ふるから小野の 元柏 元の心は わすられなくに'''』<ref>意味は「古い枯れた幹ばかりの野に 古くからある柏 その柏のように 以前からの気持ちを忘れてはいません」。古今和歌集 巻第十七 雑歌上886 題知らず よみ人知らず</ref>という古歌の一節だ。元通も尼子のことが忘れられないだろう」と考え、再び禅僧を元道へ遣わし、尼子に味方するようお願いする。はたして元通はお目付け役の中原善左衛門を切り、尼子再興軍に味方することとなった。なお、元通はその後上月城落城まで付き従い、尼子勝久と共に切腹し自害している<ref>『雲陽軍実記』第五巻 神西三郎左衛門再び尼子方一味の事 より。</ref><ref>『陰徳太平記』巻四十三 神西三郎左衛門志を変する事 より。</ref><ref name="名将言行録" />。
 
敵軍に敗れ捕虜となった幸盛が、[[厠]]から逃げ出す逸話がある。尼子氏滅亡後、幸盛は、尼子家再興を目指し出雲で戦いを繰り広げていたが、敗れて末吉城で降伏することとなる。その後、尾高城へ幽閉されることとなった幸盛は「赤痢になった」と偽って何度も厠へ通い<ref>『雲陽軍実記』では昼夜70~80回。『陰徳太平記』では一晩に170~180回厠に通ったと記載。</ref>、あまりの頻度に付き添っていた監視役が付いてこなくなると、その隙を突いて逃げ出すこと<ref>『雲陽軍実記』では、厠の透垣(板と板、または竹と竹との間を少し透かしてつくる[[垣根]])を乗り越え、底樋(ため池などの底の水を取水する[[樋 (土木)|樋]])の[[水門]]を抜けて逃げたと記載。『陰徳太平記』では、 厠の樋を游り(くくり)て逃げ出したと記載。</ref>に成功したという<ref>『雲陽軍実記』 第五巻 「毛利元就公病死、山中鹿之助偽りて降参、並びに勝久公隠州落ちの事」。</ref><ref>『陰徳太平記』 巻第四十八 「山中鹿の助出奔 付り 尼子勝久走於隠州に逃之事」。</ref>。
 
[[天正]]6年7月([[1578年]]8月)、幸盛の籠もっていた上月城は毛利軍に攻められ、援軍の[[羽柴秀吉]]軍が撤退したこともあり、毛利氏に降伏することになる。幸盛は降伏に際し、[[尼子勝久|勝久]]の助命を再三にわたり毛利軍の[[吉川元春]]・[[小早川隆景]]に申し立てたが、両将は「勝久が切腹しなければ、城内の者を悉く皆殺しにする」と言って許さなかった。万策尽きた幸盛は、勝久に向かい涙を流しながら「 このたびは殿の命を救うため再三にわたって申し立てしましたが、元春・隆景は承知しませんでした。この上は、力なく武運も尽きたと思って御自害ください。自分もお供するのは当然ですが、特に敵の吉川元春は憎い仇なので、偽って降参し近くに寄ったとき刺し違え、当家多年の鬱憤を晴らすつもりです。命を惜しみ不義の降人と思われるのは口惜しいですが、すぐに三途の川で追いつき、その時こそ忠義に嘘偽りのないことをお示しします」と申し立てた。それに対し、勝久は「自分は、普通なら法衣を纏い抖藪[[行脚]](とそうあんぎゃ)をして生涯を終える身なのに<ref>勝久は当初、京都の東福寺の僧であった。</ref>、一時的とはいえ尼子家の大将として数万の軍勢を率いることができた。わずかな期間であったが良い夢を見させてもらった。今ここに自害するに及んで何の恨みがあるだろうか。ましてや、自分が死ぬことで部下の命が助かるならば、むしろ大将としては幸いなことだ。また、元春と刺し違えて仇をとることはたいへん立派なことだが、元春は智勇に優れておりそのような機会は訪れないだろう。それよりは、生き長がらえ、別の尼子庶子を探し出し、その者を大将として助け、尼子の再興を目指して欲しい」と言って幸盛に別れを告げた<ref>『陰徳太平記』巻五十六 上月城没落 付 勝久自害の事 より。</ref>。
 
== 墓所 ==
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;阿井の渡しの墓([[岡山県]][[高梁市]]落合町阿部)
:幸盛は、備中松山に在陣する毛利輝元へ送られる途中、阿井の渡しで殺害される。正徳3年(1713年)10月、幸盛の死を哀れみ、松山藩士であった前田市之進時棟と佐々木軍六が、この地に墓石を建立した。碑文に次のように記載される。「尼子十勇、儕輩絶倫、不得伸志、無遭干時、忠肝義膽、爰樹爰封、殊勲偉績、千載流芳。前田時棟謹銘」。
 
;観泉寺境内の墓(岡山県高梁市落合町阿部)
:幸盛の遺体は、曹洞宗観泉寺の住職、珊牛和尚がその遺体を引き取り、石金堂(清講堂)に埋葬されたと伝える。寺内には幸盛の位牌も安置されている。戒名は「幸盛院鹿山中的居士」。また、明治35年には、第14世金地祖英師が新たに墓石を建設した。戒名も追贈され「幸盛院殿鹿山中的大居士」となる 。
 
;[[大徳寺]][[玉林院]]内の墓([[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]紫野大徳寺町)
:寛保3年(1743年)5月22日、幸盛の子孫である大坂の商人、鴻池家当主をはじめ18名によって建立された。 鴻池家は先祖の菩提を弔うために、江戸時代中期の寛保年代に、玉院林の中に位牌堂を創建した。この位牌堂は「南明庵」と称され、幸盛の位牌もそこに安置されている。この南明庵の向かいの墓所に幸盛の墓がある。墓の裏面には、次のように記載される(原文は漢文)。「尼子忠臣山中幸盛、幼きより勇彊にして、軍鋒の魁たり。年三十四にて備中阿部に戦死す。実に惟れ天正六戌寅五月廿二日也、子孫一宗、鴻池十八人相與に謀り、樹石を紫野玉林禅院に奉り、先ず本に報じ、以て無窮に示す。 寛保三年歳舎癸亥五月廿二日 現住比丘大龍宗丈誌す」。
 
;本満寺実泉院内の墓(京都府京都市[[上京区]]寺町)
:宝暦14年(1764年)5月22日、幸盛の子孫である山中永辰と山中一信によって建立された。幸盛の墓は本堂脇の墓所中央に位置し、周囲に山中一族の墓碑がある。墓の裏面には、次のように記載される(原文は漢文)。「尼子忠臣山中幸盛、幼きより勇彊にして、軍鋒の魁たり。年三十(四)にて備中阿部に戦死す。実に惟れ天正六戌寅五月廿二日也。子(孫)山中永辰、同一信、相與に謀り、樹石を広宣し、流布山本願満足寺に奉り、先ず本に報じ、以て無窮に示す。 宝暦十四年歳舎甲申五月廿二日 当山丗七世日視誌す」。
 
;[[金戒光明寺]]金光院内の墓(京都府京都市[[左京区]]黒谷町 )
:金光院の奥の墓所中央、文殊堂へ通じる石段の登り口に、幸盛の五輪塔が建立されている。傍には、亀井茲矩と茲矩の妻(幸盛の養女)の2基の五輪塔がある。幸盛の五輪塔には、次の銘文が刻まれる。「潤林院殿太誉淨了大禅定門 、天正六年七月十七日」。
 
;幸盛寺内の墓([[鳥取県]][[鳥取市]]鹿野町鹿野)
:元は明照山持西寺と称し、宝徳年中(1449年 - 1452年)に凝阿上人によって開かれた寺である。場所も今の場所でなく、鹿野西北山麓にあった。文禄元年(1592年)、鹿野城主であった亀井矩茲が、幸盛の菩提を弔うため、明照山持西寺の住職照誉に命じて寺を現在の場所に移し、名も鹿野山幸盛寺と改称し建設した。慶長13年(1608年)には、矩茲によって、備中の遭難地より幸盛の遺骨の数片が集められ、境内に幸盛の墓が建設されている。墓碑銘には次のように記載される。「天正十一癸未七月二日 為幸盛寺殿潤琳淨了居士 沙門蓮社照誉上人建之」。寺内には幸盛の位牌も安置される。戒名は「幸盛寺殿潤淋淨了居士」。
 
;巌倉寺内の供養塔([[島根県]][[安来市]]広瀬町富田)
:慶長7年(1602年)7月、堀尾吉晴の夫人(奥方)が幸盛の忠義を讃え、巌倉寺の境内に建立した。一時、第2次世界大戦中に食糧増産のあおりをうけ、甘藷(さつまいも)畑になり、境内の世代墓の片隅に移転されていた。寺内には幸盛の位牌も安置される。位牌の裏には次のように記載される。「天正六年戊寅七月十七日 於備中阿部渡為毛利氏討死 寛永二十年癸未二月 當山二十二世観譽建之」。戒名は「幸盛寺殿潤林淨了居士」。
 
;静観寺山門前の首塚([[広島県]][[福山市]]鞆町後地)
:備中松山城で毛利輝元の首実験を受けた幸盛の首は、ここの地に送られたとされる。当時、毛利氏に身を寄せていた足利義昭はこの地に滞在していたので、その首実検に供するためである。石碑は自然石をそのまま利用して刻文はなく、近くに「山中鹿之助首塚」の標石がある。寺内には幸盛の位牌も安置される。戒名は「幸盛院殿大譽淨了大居士 」。
 
;徳雲寺境内の首塚(広島県[[庄原市]]東城町菅)
:幸盛の首は、鞆の浦に送られ埋葬されたが、非業の死を遂げた彼を憐れむ尼子の残党の手により夜陰に紛れ密かに首を掘り出して、尼子勝久が幼少時に過した徳雲寺へと運び本堂の裏山へ手厚く埋葬し供養したという。石碑は自然石をそのまま利用して刻文はなく、後に「山中鹿之助幸盛公首塚」の標石がある。寺内には幸盛の位牌も安置される。戒名は「幸盛院鹿山的中居士 」。
 
;浄教寺内の供養塔(広島県[[広島市]][[西区 (広島市)|西区]]草津本町)
:昭和52年(1977年)7月、幸盛の子孫である山中豊子が400回忌の追善菩提の為に、浄教寺の境内に供養碑を建立した。幸盛の供養碑銘には次のように刻まれる。「四百年忌、昭和五十二年七月十七日、幸盛院殿鹿山中的大居士、天正六年七月十七日歿、俗名山中鹿之介幸盛、行年三十四歳、如意観泉寺前住珊牛和尚授与、幸盛院殿大誉淨了」。
 
;末吉城跡の供養塔([[鳥取県]][[大山町]]末吉)
:地元では古くから幸盛の供養塔と伝えられている。2000年(平成12年)10月以前までは同集落内の個人宅の庭先にあったが諸事情により現在の国道9号線の交差点横(この場所は末吉城の城門跡と伝えられる)に移動した。供養碑は五輪塔であり刻文はなく、近くに「山中鹿之介の供養塔」の標柱がある。
 
;忠山砦跡の供養塔([[島根県]][[松江市]]美保関町)
:幸盛の供養碑は忠山山頂の片隅にあり、石碑が建立された年代は不明であるが、小さな茶色い長方形の幸盛の供養碑銘には次のように刻まれる。「南無妙法蓮華経 山中鹿之助一族供養塔」。
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*[[おやまだみむ]]『山中鹿介物語-尼子再興記』(株式会社スクウェア・エニックス 2010年) ISBN 978-4-7575-3097-3
 
== 脚注 ==
;ゲーム
*[[カプコン]]『[[戦国BASARA|戦国BASARA4]]』(2014年 声優:[[入野自由]])
 
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{reflist|3}}
 
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*島根県古代文化センター『戦国大名尼子氏の伝えた古文書-佐々木文書-』(島根県古代文化センター 1999年)
*山本浩樹『西国の戦国合戦-戦争の日本史12-』([[吉川弘文館]] 2007年) ISBN 978-4-642-06322-7
* {{Cite book|和書|year = 2010|title = 尼子氏と戦国時代の鳥取|editor = 鳥取県公立文書館 県史編さん室|series = 鳥取県史ブックレット4|ref 尼子氏と戦国時代の鳥取』(= {{SfnRef|鳥取県 2010年)}}}}
* {{Cite book|和書|author = [[米原正義]]|year = 1989|title = 編『山中鹿介のすべて』(|publisher = 新人物往来社、1989年)|isbn ISBN= 4-404-01648-4|ref = {{SfnRef|米原}}}}
*妹尾豊三郎『山中鹿介幸盛-戦国ロマン広瀬町シリーズ4』(ハーベスト出版、1971年) ISBN 978-4-938184-07-0
*妹尾豊三郎『詩文に表れた月山と幸盛-戦国ロマン広瀬町シリーズ9』(ハーベスト出版、1976年) ISBN 978-4-938184-11-7
* {{Cite book|和書
*依田武勝『山中鹿之助-歴史新発掘-川中島合戦の落し子の生涯』(叢文社 2010年) ISBN 978-4-7947-0648-5
|author = [[依田武勝]]|year = 2010|title = 山中鹿之助 - 歴史新発掘 - 川中島合戦の落し子の生涯|publisher = 叢文社|isbn = 978-4-7947-0648-5|ref = {{SfnRef|依田}}}}
 
== 関連項目 ==
{{commonscat|Yamanaka Yukimori}}
* [[源氏|宇多源氏]] - 山中氏の[[本姓]]
** [[佐々木氏]]