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'''林 倭衛'''(はやし しずえ、[[1895年]] - [[1945年]])は、大正から昭和にかけての日本の[[洋画家]]
 
==生涯==
[[長野県]][[小県郡]]上田町(現・[[上田市]])の生まれ。父が製糸工場経営に失敗し、小学校に通い始めた倭衛と弟を実家の小林家に預けたまま東京に逃げたため、倭衛は小学校6年を終えてから上京し、15歳頃から書店や印刷会社に勤める。両親の他に弟3人と妹一人の生計を支えるために苦慮した。明治44年([[1911年]])の4月から[[大下藤次郎]]が主宰する日本水彩画研究所の夜間部に入って絵の勉強を始め、大正2年([[1913年]])7月から道路人夫として働きながら、[[サンディカリスム|サンジカリズム]]研究会に加わり、[[大杉栄]]ら[[アナーキスト]]と交流するようになる。
 
大正5年([[1916年]])に創刊された月刊紙『[[平民新聞]]』の郵送を手伝いはじめたのと同じ年の[[二科展]]に「サンジカリスト(バクーニンの肖像)」「多摩川付近」という2つの絵が初入選している。大正8年([[1919年]])に無政府主義者の大杉栄を描いた「出獄の日のO氏」を二科展に出品し、[[警視庁]]から撤回を命じられる。大正10年(1921年)にヨーロッパへ渡り、おもに[[パリ]]に滞在して制作を続ける。
 
大正15年([[1926年]])に帰国し、[[春陽会]]の会員となる。