「ハンス・フォン・ドホナーニ」の版間の差分

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「アクセント記号」を「母音の長音記号」に訂正
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[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の[[作曲家]][[エルンスト・フォン・ドホナーニ|ドホナーニ・エルネー]]と、その妻で[[ピアニスト]]だったエリザベート・クンヴァルトの息子として[[ウィーン]]に生まれる。両親の離婚後は[[ベルリン]]で育つ。[[ギムナジウム]]時代の学友に、のちに[[神学者]]として反ナチ抵抗運動に加わる[[ディートリッヒ・ボンヘッファー]]とその兄クラウスがいた。1920年から1925年まで[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]で[[法学]]を学び、1925年に[[ハンブルク]]の港湾施設に対する[[チェコスロバキア]]による使用権主張に関する論文で[[博士号]]を取得した。
 
司法試験合格後の1925年にボンヘッファー兄弟の姉妹クリスティーネと結婚した。この結婚を機に、ハンガリー系の姓ドホナーニ(Dohnányi)の「a」の上についていた[[アキュート・アクセント|アクセント母音の長音記号]]を除去した。妻との間に3児をもうけ、長男[[クラウス・フォン・ドホナーニ|クラウス]]はのちに政治家となり、次男[[クリストフ・フォン・ドホナーニ|クリストフ]]は指揮者になる。
 
ハンブルク市庁での短期間の勤務の後、1929年に法務省に入省し、[[検察官]]、1934年以後は参事官として歴代法相に仕えた。1932年には最高裁判所長官{{仮リンク|エルヴィン・ブムケ|de|Erwin Bumke}}の補佐官を務め、その際[[フランツ・フォン・パーペン]]首相による[[プロイセン州]]の[[オットー・ブラウン]]州首相解任事件に対する違法裁定判決に関わった。無法な「[[長いナイフの夜]]」事件ののち、反[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]抵抗運動に参加するようになったと思われる。ナチ政府による犯罪行為を列挙した文書を作成し、政府転覆の後に法に基づいた裁きを行うための資料とした。1938年にナチスによる[[ニュルンベルク法]]をドホナーニが批判したことが明らかになると、最高裁判事に左遷された。