「地歌」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m →概略 |
m 一部の修正、およびスタブ削除 |
||
6行目:
----
== 概略 ==
地唄は'''地歌'''と書くことも多く、[[三味線]]を用いた音楽であり、その中でも[[長唄]]と共に「歌いもの」を代表する種目。また[[三曲]]の一つ。[[芸術]]的な三味線音楽として最も古くまで遡ることができるもので、多くの三味線音楽の祖であり、[[義太夫節]]など各派[[浄瑠璃]]や[[長唄]]も、もともと地唄から派生したものであるといえる。かなりの種目が[[人形浄瑠璃]]や[[歌舞伎]]といった舞台芸能と結びついて発展してきた
三味線を用いた音楽としては、初期に[[上方]](京阪地方)で成立していた地唄は、元禄頃までは[[江戸]]でも
幕末までには、京阪を中心に東は名古屋、西は中国、九州に至る範囲で行われた。明治以降には生田流系箏曲とともに東京にも再進出、急速に広まった。現在は沖縄を除く全国で愛好されている。ただし東京では「[[上方舞|地唄舞]]」の伴奏音楽としてのイメージが
一方三曲界内部においては、[[明治維新]]以来の西洋音楽の導入に伴って、その器楽
一般的に地唄、[[三曲]]の世界では[[三味線]]を[[三弦]]と称する場合が多い('''三絃'''とも書く)。
19行目:
===江戸時代初期===
====三味線の伝来と地歌の発祥====
地
===江戸時代中期===
34行目:
もともと地唄三味線、箏、胡弓は江戸時代の初めから当道座の盲人音楽家たちが専門とする楽器であり、総称して[[三曲]]という。これらの楽器によるそれぞれの音楽である地唄、箏曲、胡弓楽が成立、発展して来たが、演奏者は同じでも種目としては別々の音楽として扱われており、初期の段階では異種の楽器同士を合奏させることはなかった。しかし元禄の頃、[[京都]]の生田検校によって[[三弦]]と[[筝]]の合奏が行われるようになり、地唄と[[筝曲]]は同時に発展していくことになる。
現在伝承されている曲の多くは
====謡ものの始まりと諸浄瑠璃の吸収====
47行目:
====替手式箏曲の始まりと合奏の発達====
また[[文化_(元号)|文化]]の頃に大阪の市浦検校が、これまでほとんどユニゾンに近かった箏の合奏を改め、もとの三味線に対して異なった旋律を持つ箏パートを作るようになった。これを「替手式箏曲」と呼び、更に八重崎検校らによって洗練されて行く。三味線同士の合奏も盛んで、やはり原曲と異なった複雑な合奏効果をもつパートである「替手」がいろいろ作られ、また元の曲と合奏出来るように作られた別の曲を合わせる「打ち合わせ」など、三曲合奏とともに様々な合奏が発達した。
====京ものの大発展====
56行目:
====箏曲独立への胎動====
菊岡検校の後輩である光崎検校はその頃に活躍した。彼は箏の名手八重崎の弟子でもあり、
====パート間の緊密化====
63行目:
===明治以降===
====維新後の混乱と地歌の普及====
[[明治]]時代になると、[[筝曲]]が独自に発展してゆき、地唄の作曲は少なくなっていった。もちろんまったく作られなくなったわけではなく、京都の古川瀧斎、松坂春栄、名古屋の小松景和、岡山の西山徳茂都などが作品を残してはいるが、箏のみの作品が圧倒的に増えていく。それは、すでに地
こうして権威を失った検校たちは困窮し、寄席にまで出演して稼がねばならない有り様であった。反面こうして地唄は一般にも広まり、特に、江戸時代中期以降は地唄が盛んでなかった東京をはじめとする東日本に、生田流系箏曲とともに地唄が再び広まる機会ともなった。長谷幸輝、富崎春昇、米川親敏、太田里子など九州、大阪をはじめ西日本から東京に進出する演奏家も多かった。やがて西洋一辺倒の時期が過ぎると、地唄は箏曲、尺八とともに全国に普及した家庭音楽となり、広く愛好されるようになった。ただし箏が主体となって、地唄単独での作曲は少なくなったが、地唄的な作品、地唄三味線を使った曲は[[宮城道雄]]をはじめ、こんにちに至るまで少なからず作られている。
183行目:
#中棹に含められているが、地歌の三味線は棹や胴が[[浄瑠璃]]系の中棹三味線よりもやや大きい。ただし細いものを使う派も少ないながらある。また[[糸]](弦)も長唄よりもやや太いものを使うことが多い。
#棹が[[胴]]に接するあたりは、普通の三味線では棹の上面が徐々にカーブを描いて下がっていく(この形を「鳩胸」と呼ぶ)が、地歌の三味線では上面が胴に接するぎりぎりまで高さを保つように作られている。これにより、解放弦から2オクターヴと2度程度までの高い音を出すことができるようになっている(他の三味線は1オクターヴと5〜6度)。これを考案したのは、明治に熊本、東京で活躍した九州系地歌演奏家の長谷幸輝(ながたにゆきてる・[[1843年]] - [[1920年]])といわれる。手事もの地唄曲では高いポジションをよく使用するが、これにより明確な高音が出せるようになった。
#[[駒]]は[[水牛]]の[[角]]製のものが多く、まれに[[象牙]]や[[鼈甲|べっ甲]]製のものもある。裏面(皮に接する面)に[[金属]]のおもり([[金]]、[[銀]]、あるいは[[鉛]])を二カ所に埋め込んだものが多く使われる。おもりの重さによって音色も変わって来るので、地歌の演奏家は普通、楽器の癖、[[皮]]の張り具合、[[天候]]、曲調などに合わせいくつもの駒を使い分ける。なおこの駒を改良したのも長谷幸輝といわれ、本来九州系で使われていたものが次第に広まったもので、関西では水牛角製でもおもりがなく底辺の大きい「台広」といわれる駒を使うことが多かった。いずれにしても地歌の駒は音色を決める上で非常に重要なものであり、その点において世界の[[弦楽器]]の駒の中でももっとも発達したものと言ってもよい。
#撥は、多くの系統で「津山撥」と称する大型のものを使用する。これは[[文政]]から[[天保]]初年の頃に大阪の津山検校が改良したもので、撥が先に向かって急に開くあたりから厚みを急に減らし、それから先が急に薄くなっているもの。撥の開きも大きいこともあり、撥先が鋭く、弾力性も増して細かな技巧に適している。また弾く時には、撥を胴の枠木の部分に当て、撥音を立て過ぎないようにする。これも繊細な音作りのためである。これらは地歌が[[劇場]]のような広い場所での演奏でなく、また芝居や[[舞踊]]の[[伴奏]]ではない純粋な音楽として、音に注意を集中し、室内でじっくりと音色を味わう音楽上の性格から来ている。材質はすべて象牙でできたものを第一とし、それを「丸撥」(まるばち)と呼ぶ。他に握りの部分が象牙で、撥先をべっ甲にしたものもよく使われる。昔は握りが水牛の角製のものが多かった。もちろん現在では象牙、べっ甲共に稀少品なので、合成樹脂でできているものを稽古に使うことも多い。
194行目:
* [[地唄舞]]
* [[胡弓]]
* [[松浦検校]]
* [[菊岡検校]]
* [[八重崎検校]]
* [[石川勾当]]
* [[光崎検校]]
* [[吉沢検校]]
199 ⟶ 204行目:
[[Category:三味線|しうた]]
[[Category:三曲|しうた]]
|