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剛勇に優れ、父・義道と共に[[織田信長]]配下の長岡藤孝(細川藤孝)の奥[[丹後国|丹後]]侵攻を退けたという。天正7年([[1579年]])に義道が自害すると一色家の家督を継承し、[[弓木城]]で残党を率いて織田方に抗戦した。信長の意向もあり抗戦に手こずった藤孝は、[[明智光秀]]の助言により政略結婚によって和議を結び、以後、丹後国を[[長岡氏]]([[細川氏]])と分割統治した。
 
[[中郡 (京都府)|中郡]]・[[竹野郡 (京都府)|竹野郡]]・[[熊野郡]]のいわゆる奥丹後(現在の[[京丹後市]])を領した義定(長岡氏は[[加佐郡]]・[[与謝郡]]を領有した)は[[織田政権]]の丹後[[守護]]として天正9年([[1581年]])の[[京都御馬揃え]]にも参加し、織田氏による[[甲州征伐]]にも口丹後の長岡氏(細川氏)と共に参戦している。隣国である但馬国の[[山名堯熙]](氏政)とも親しく旧守護家同士ということで親交を深めていた。姻戚関係にあったともいう。
 
また国許においては弓木城を居城にして城下町を形成し丹後北半国を統治した。天正10年(1582年)の[[山崎の戦い]]では直接の上司である明智光秀に味方する(長岡氏は上司である明智光秀に背く)。