「微分法」の版間の差分

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{{Main|{{仮リンク|微分積分学の歴史|en|History of calculus}}}}
 
接線の傾きを知るという意味で言えば、微分係数の概念は旧く[[古代ギリシア]]の[[エウクレイデス]] (c. 300 BC), [[アルキメデス]] (c. 287–212 BC), [[ペルガのアポロニウス]] (c. 262–190 BC) ら幾何学者たちには馴染みのものであった<ref>[[ユークリッド原論|エウクレイデスの『原論』]]、{{仮リンク|アルキメデス写本|en|Archimedes Palimpsest}} および {{MacTutor Biography|id=Apollonius|title=Apollonius of Perga}}を参照</ref>を参照。またアルキメデスは[[無限小]]を用いる方法も導入しているが、それは微分や接線に関してではなくて主に面積や体積に対してである{{仮リンク|アルキメデス方法論|label=アルキメデスの『方法論』|en|Archimedes' use of infinitesimals}}の項を参照)。
 
変化率の研究に無限小を利用することは、[[インドの数学]]において恐らく紀元前500年くらい頃には見つけることができる。天文学者で数学者の[[アリヤバータ]] (476–550) は[[月の軌道|月の運行]]の研究に無限小を用いた<ref>{{MacTutor Biography|id=Aryabhata_I|title=Aryabhata the Elder}}</ref>。変化率の計算に無限小を用いる手法は[[バースカラ2世]] (1114–1185) によって飛躍的に推し進められた。実際、[[ロルの定理]]など<ref>{{Cite journal|first=T. A. A.|last=Broadbent|title=Reviewed work(s): ''The History of Ancient Indian Mathematics'' by C. N. Srinivasiengar|journal=The Mathematical Gazette|volume=52|issue=381|date=October 1968|pages=307–8|doi=10.2307/3614212|jstor=3614212|last2=Kline|first2=M.}}</ref>の微分法における重要な概念がその研究結果には含まれていると言われている<ref>Ian G. Pearce. [http://turnbull.mcs.st-and.ac.uk/~history/Projects/Pearce/Chapters/Ch8_5.html Bhaskaracharya II.]</ref>。[[アラビア数学|ペルシアの数学者]]{{仮リンク|シャラフ・アル゠ディン・アル゠ツシ|en|Sharaf al-Dīn al-Tūsī}} (1135–1213) は[[三次函数|三次多項式]]の[[微分係数]]を初めて求めて、微分法における重要な足跡を残した<ref>J. L. Berggren (1990). "Innovation and Tradition in Sharaf al-Din al-Tusi's Muadalat", ''Journal of the American Oriental Society'' '''110''' (2), p. 304-309.</ref>。その「方程式に関する研究論文」では、導函数や曲線の[[最大値・最小値|最大と最小]]など、正の解を持たない[[三次方程式]]を解くための微分法に関する概念が展開されている<ref name=Sharaf>{{MacTutor|id=Al-Tusi_Sharaf|title=Sharaf al-Din al-Muzaffar al-Tusi}}</ref>。
 
現代的な微分積分学は、[[アイザック・ニュートン]] (1643–1727) および[[ゴットフリート・ライプニッツ]] (1646–1716) の両者が独立に創始したというのが通例である<ref>ニュートンの研究は1666年に始まり、ライプニッツは1676年に始まる。が、ライプニッツが最初の論文を出すのが1684年で、1693年に出版のニュートンに先んじている。ライプニッツがニュートンの1673年か1676年の研究ドラフトを目にするしたこと、あるいはニュートンがライプニッツの研究を自分の研究の洗練に用いたことなどは、可能性としてはあり得ることである。両者は互いに相手が自分の仕事を盗作したと主張した。この顛末は誰が微分積分学の創始者であるかを巡って両者の苦い{{仮リンク|ライプニッツとニュートンの論争|en|Leibniz–Newton calculus controversy|label=論争}}となり、18世紀初頭の数学界に大きな衝撃を与えた。</ref>。これにより微分を求めることと接線の傾きを求めることとが統一的に扱われるようになるが、彼らを創始者とする鍵となる洞察は微分法と積分法とを結びつける[[微分積分学の基本定理]]であり、これは時代遅れの([[イブン・ハイサム]](アルハゼン)の時代<ref name=Katz>Victor J. Katz (1995), "Ideas of Calculus in Islam and India", ''Mathematics Magazine'' '''68''' (3): 163-174 [165-9 & 173-4]</ref>からそれほど拡張されたわけではなかった)古くからある面積や体積の計算法を塗り替えるものである<ref>限定された特定の場合に関しては[[ジェームス・グレゴリー]] (1638–1675) がすでに証明しており、いくつか重要な例に関しては[[ピエール・ド・フェルマー]] (1601–1665) の仕事に見つけることができるとはいえ、これは記念碑的な到達点であった。</ref>。ニュートンとライプニッツ両者の微分に関する考え方は、[[アイザック・バロー]] (1630–1677), [[ルネ・デカルト]] (1596–1650), [[クリスティアーン・ホイヘンス]] (1629–1695), [[ブレーズ・パスカル]] (1623–1662), [[ジョン・ウォリス]] (1616–1703) ら数学者の著しい先駆的研究の上に打ちたてられている。一般的にはバローが微分の先駆的発明者とされる<ref>Eves, H. (1990).</ref>にも拘らず、ニュートンとライプニッツ微分法の歴史における重要人物であることに変わりないのは、少なくともニュートンが微分法を[[理論物理学]]に応用した最初の人であり、一方ライプニッツは今日においても使用される系統的な記号法を生み出したといった理由による。
 
17世紀以降多くの数学者が微分法に貢献している。19世紀には、微分積分学は[[オーギュスタン・ルイ・コーシー]] (1789–1857), [[ベルンハルト・リーマン]] (1826–1866), [[カール・ヴァイヤストラス]] (1815–1897) ら数学者によってより厳密な基礎の上に置かれることになる。このころにはまた、微分法は[[ユークリッド空間]]や[[ガウス平面]]上へも一般化されている。