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[[File:Kou Zhun.jpg|thumb|right|170px|寇準]]
'''寇 準'''(こう じゅん、[[961年]] - [[1023年]]10月24日)は、[[北宋]]の大臣[[]]は平仲。[[]]は忠愍。萊公と敬称される。華州下邽([[陝西省]][[渭南市]])の人。[[北宋]]の大臣
 
性格は剛直で知られ、『[[宋名臣言行録]]』には「寇準上殿、百僚股栗」(寇準が御殿に登ると部下共はふるえあがる)という話が出ているほどである。[[太平興国]]5年([[980年]])、[[進士]]に及第。同年の進士に王旦・向敏中・蘇易簡・張咏・晁迥・謝泌・馬亮など北宋初期の名臣と称される者が多い。[[淳化]]5年([[994年]])には[[参知政事]]となり、[[真宗 (宋)|真宗]]の即位後は[[工部]]、[[刑部]]、[[兵部]]で職を歴任する。[[景徳]]元年([[1004年]])には[[同中書門下平章事]](宰相)の職に就く。同年冬、[[契丹]]が[[聖宗 (遼)|聖宗]]の親征により軍を南下させ[[河北]]の瀛洲などを包囲し、北宋の朝廷は狼狽し[[王欽若]]らが南遷を主張する中、寇準は真宗の親征を主張し、親征が実現。澶州で戦線は膠着状態になり[[セン淵の盟|澶淵の盟]]が結ばれる。景徳2年([[1005年]])に中書侍朗と工部尚書を兼任する。景徳3年([[1006年]])に王欽若の讒言により罷免される。[[天禧 (宋)|天禧]]元年([[1017年]])に宰相に復職するも、天禧4年([[1020年]])、[[丁謂]]・[[銭惟演]]らの讒言により宰相を追われ、雷州司戸参軍に左遷され、任地で没した。[[1034年]]に名誉回復された。
 
小説『[[楊家将演義]]』では、楊一族を助けて奸臣[[潘仁美]]を獄に下す忠臣として描かれている。
 
 
 
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[[Category:の人物]]
[[Category:渭南出身の人物]]
[[Category:961年生]]