「峯雲 (駆逐艦)」の版間の差分

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この時、重巡「羽黒」の20cm砲弾が英重巡洋艦「[[エクセター (重巡洋艦)|エクセター]]」の機関部に命中して炸裂<ref name="叢書(26)478">[[#叢書26海軍進攻作戦]]478-479頁『連合軍側の状況』</ref>。ドールマン少将は被弾し速力の低下した「エクセター」の避退を援護するため、英駆逐艦に第9駆逐隊を撃退するよう命じた。第9駆逐隊は煙幕から駆逐艦2隻(エレクトラ、エンカウンター)が飛び出してくるのを確認し、距離3000mで砲撃戦となる<ref>[[#叢書26海軍進攻作戦]]454頁</ref>。被弾した司令駆逐艦「朝雲」は一時航行不能に陥った<ref name="叢書(26)478"/><ref name="巡洋艦戦記142">[[#巡洋艦戦記]]142-143頁</ref>。「峯雲」は「朝雲」を掩護しつつ砲戦を続行<ref name="巡洋艦戦記142"/>。「[[エンカウンター (駆逐艦)|エンカウンター]]、[[ジュピター (駆逐艦)|ジュピター]]」を撃退し、「[[:en:HMS Electra (H27)|エレクトラ]]」を共同で撃沈した<ref name="叢書(26)合戦図2月27日第二次昼戦その2">[[#叢書26海軍進攻作戦]]付図第五『スラバヤ沖海戦(昭和十七年二月二十七日)第一次昼戦その二(1920~1950)合戦図』</ref><ref>[[#S1612四水戦作戦記録(4)]]pp.37-38『(ロ)新型一等驅逐艦ノ給弾薬 「スラバヤ」沖海戦晝戰ニ於テ峯雲ハ朝雲ト共ニ巡洋艦三隻駆逐艦三隻ノ有力ナル敵ト砲戰シ敵巡洋艦及駆逐艦二隻ハ逃走駆逐艦一隻ヲ撃沈セシモ此ノ戰闘ニ於テ峯雲ハ三〇乃至四〇齋射頃ヨリ先ヅ装薬間ニ合ハズ次イデ弾薬間ニ合ハズ遂ニ射撃速度ヲ著シク減ジ(齋射間隔八乃至九秒幸射撃速度ヲ著シク減ジタル時ハ敵ノ大部ハ逃走シ残ル一艦モ沈没ニ瀕シ砲火沈黙シアリタリ)甚シキ不安ノ念ヲ起サシメタリ…』</ref>。
なお第9駆逐隊(朝雲、峯雲)の戦果報告(速報)は『巡洋艦1隻・駆逐艦2隻撃沈』だった<ref>[[#四水戦スラバヤ(4)]]p.25『(ロ)「スラバヤ」沖海戰ニ於テ朝雲峯雲ハ巡洋艦三隻駆逐艦三隻ノ優秀ナル敵ト交戰勇戰敢闘巡洋艦一隻駆逐艦二隻ヲ撃沈シ以テ我ガ水雷戰隊ノ本領ヲ遺憾ナク發揮シ帝國海軍ノ傳統ニ光輝アラシメタリ』</ref>。後日、戦果検討の席上で佐藤司令は「遠くへ逃げてばかりいたヤツになにがわかるか」と怒り、この戦果報告はそのまま計上されたという<ref name="巡洋艦戦記142"/>。
 
本海戦終了後、佐藤大佐は司令駆逐艦を「朝雲」から「夏雲」に変更する<ref>[[#S1702四水戦日誌(1)]]p.83『二十八(天候略)一七.1600朝雲ヲ修理ノタメ「バリクパパン」ニ回航セシム(《司令》9dgハ夏雲)』</ref>。自力航行可能となった「朝雲」は修理のため戦線を離脱し、無傷の第9駆逐隊は2隻(夏雲、峯雲)になった<ref>[[#四水戦スラバヤ(2)]]p.23『〇七四七4sdハ列ヲ解キ第一警戒航行隊形所定ノ位置ニ就ク〇八一五峯雲朝雲ヲ護衛シ合同シ9dg司令ハ司令駆逐艦ヲ夏雲ニ変更朝雲ヲ修理ノタメ「バリクパパン」ニ回航セシメ其ノ他予定ノ如ク「クラガン」ノ泊地ニ向ヘリ』</ref>。
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攻略作戦は順調に進み、3月31日朝になるとクリスマス島守備隊は白旗を掲げた<ref name="叢書(26)615">[[#叢書26海軍進攻作戦]]615頁『「那珂」被雷す』</ref><ref>[[#S1703四水戦日誌(2)]]p.20『三一日〇八〇七(4sd司令官)|名取|敵ハ白旗ヲ揚ゲタリ今ヨリ輸送船ヲ入泊セシメヨ』</ref>。警戒隊・輸送船は入泊して陸戦隊の揚陸を開始する<ref name="叢書(26)615"/>。20時30分、駆逐艦「天津風」が到着して対潜哨戒に加わった<ref name="叢書(26)615"/><ref name="原復刻34">[[#原(復刻版)]]34-35頁</ref>。4月1日18時、「那珂」及び第9駆逐隊(峯雲、夏雲)はクリスマス島北方海面を哨戒していた<ref name="叢書(26)615"/>。この時、[[潜水艦]]「[[シーウルフ (サーゴ級潜水艦)|シーウルフ]]」 (''USS Seawolf, SS-197'') が「那珂」を雷撃、魚雷1本が命中した「那珂」は大破した<ref name="原復刻34"/>。「那珂」は「名取」に曳航されてジャワ島へむけ退避(途中から自力航行)、「名取」の他に「夏雲、峯雲、天津風《途中まで》、長月、水無月」等に護衛されて航海を続ける<ref>[[#S1703四水戦日誌(3)]]p.14『途中那珂ハ2日0810迄ハ名取夏雲峯雲天津風ノ護衛ヲ受ケ0810以後更ニ2D/22dg(長月水無月)ヲ加ヘ1800ヨリ天津風原隊ニ歸リ3日0425名取ハ「バンタム」灣ニ先行セリ』</ref>。各艦は4月3日昼過ぎに到着した<ref name="叢書(26)615"/>
 
4月6日、「那珂、夏雲、峯雲」はバンタム湾を出発、[[シンガポール]]へ移動する<ref>[[#S1704四水戦日誌(1)]]pp.8『「バンタム」泊地ニ於テ静波丸ニ依リ損傷情況ヲ確メ應急準備ヲナシ6日2200九驅一小隊ト共ニ昭南港ニ向ケ「バンタム」泊地ヲ出港セリ途中天候ニ恵マレ大ナル支障ヲ受クルコトナク10日1530「セレター」軍港ニ入港セリ』</ref>。シンガポールにて西村司令官は「那珂」を工作艦「[[朝日 (戦艦)|朝日]]」に托すと、第四水雷戦隊旗艦を「夏雲」に変更<ref>[[#S1704四水戦日誌(1)]]p.9『本日附艦隊編制替ニ依リ二十四駆ハ一水戦ニ八駆ハ當隊ニ編入セラレタリ 昭南港ニ於テ朝日及101工作部ト協議シ那珂應急修理ニ関スル要務處浬ヲ終リ十二日1000将旗ヲ夏雲ニ移揚ノ上九駆一小隊ヲ率ヰ高雄ヲ経テ横須賀ニ向ヒタリ 途上十八日敵機動部隊ノ来襲ヲ聞キ我亦之ニ應ズル如ク増速セルモ荒天ノ為意ノ如クナラズ二十一日横須賀ニ歸着尓後整備作業ニ従事セリ』</ref>。2隻(夏雲、峯雲は台湾を経由して北上、[[ドーリットル空襲]]の急報に対処しつつ、4月20日夜になり横須賀へ帰投した<ref>[[#S1704四水戦日誌(1)]]p.56『四.参考(一)麾下艦船部隊ノ行動』</ref><ref>[[#S1704四水戦日誌(1)]]p.66『二〇(天候略)一九二〇9dg1D横須賀着』</ref>。
この間、艦隊の再編により第24駆逐隊(海風、江風、山風、涼風)は第一水雷戦隊へ転出、第8駆逐隊([[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]、[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]、《[[大潮 (駆逐艦)|大潮]]、[[満潮 (駆逐艦)|満潮]]》5月15日除籍<ref name="S17達850号"/>)が第四水雷戦隊に編入された。また軽巡「由良」の四水戦編入も内示されている<ref>[[#S1704四水戦日誌(1)]]p.55『二七日一八五〇大海参一部長|GF2F各参謀長(4sd 5SS司令官)|大海参一機密第二九六番電 五月九日附由良ヲ5SSヨリ除キ4sdニ編入(那珂ハ内地皈着迄4sdノ侭トス)』</ref>。
 
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=== 沈没 ===
[[1943年]](昭和18年)の正月を「峯雲」は横浜で迎えた<ref>[[#S1712四水戦日誌(3)]]p.13『峯雲ハ横浜ニ於テ白露ハ「トラック」ニ於テ夫々修理ニ従事ス』</ref>。
1月25日、朝潮型姉妹艦「[[満潮 (駆逐艦)|満潮]]」駆逐艦長[[戸村清]]中佐は、陽炎型駆逐艦14番艦「[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]」駆逐艦長(前任艦長[[勝見基]]中佐は1月15日戦死)へ転任<ref name="jirei1042">{{アジア歴史資料センター|C13072089500|昭和18年1月27日(発令1月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1042号 p.29}}</ref>。戸村中佐の後任として、鈴木(峯雲駆逐艦長)は満潮駆逐艦長に任命された<ref name="jirei1042"/>。
2月1日、峯雲駆逐艦長は[[上杉義男]]中佐(1月20日まで吹雪型駆逐艦「[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]」駆逐艦長)となる<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089400|昭和18年1月22日(発令1月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1038号 p.16}}</ref><ref name="jirei1046">{{アジア歴史資料センター|C13072089600|昭和18年2月1日(発令2月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1046号 p.22}}</ref>。