「松井秀喜5打席連続敬遠」の版間の差分

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== 背景 ==
[[File:Hideki Matsui in USA-10.jpg|thumb|ヤンキース時代の松井秀喜]]
この大会において松井は注目選手として群を抜いており、甲子園球場のラッキーゾーンが撤去されホームランて最初数がきく減会となていた[[第64回選抜高等学校野球大会]]でも、初戦の対[[岩手県立宮古高等学校|宮古]]戦で2打席連続本塁打、2回戦の対[[堀越高等学校|堀越]]戦でも2試合連続となる本塁打を放ってい記録した。また松井の高校通算60号本塁打という記録達成も目の前に迫っていたことから各スポーツ紙でも一面で扱われることが多くなり、すでに秋の[[1992年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]の有力候補の一人であった<ref>{{Cite book |和書 |title = 甲子園(裏)事件史 新聞・テレビが伝えない高校野球 |year = 2008 |publisher = [[宝島社]] |series = [[別冊宝島]] |page = 122 |isbn = 9784796664882 |ref = {{SfnRef|別冊宝島|2008}} }}</ref>。「[[ゴジラ (架空の怪獣)|ゴジラ]]」という異名が登場したのもこの頃である<ref>{{Cite book |和書 |author = 中村計 |title = 甲子園が割れた日 松井秀喜5連続敬遠の真実 |year = 2010 |publisher = [[新潮社]] |series = [[新潮文庫]] |page = 82 |isbn = 9784101332413 |ref = harv }}</ref>。星稜高校監督の[[山下智茂]]にとっても松井の存在は特別だった。打撃の松井、投球の山口が揃ったときから全国制覇を「狙いに」<ref>{{Cite journal |和書 |title = 甲子園涙の名勝負―涙を見た夏。 |date = 2010-08-10 |publisher = [[文藝春秋]] |journal = [[Sports Graphic Number]] |issue = 759 |page = 46 |ref = {{SfnRef|Number|2010}} }}</ref>いくことを決めていた山下が率いる星稜は、石川県はおろか北信越地方でも突出した実力を持つまでになっていて、全国でも5本の指に入る強豪チームであり、[[第74回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]でも優勝候補の一角に挙げられていた{{Sfn|中村計|2010|p=101}}。
 
大会前の明徳義塾には松井についてあまり情報が入っていなかった。しかし、星稜の第1試合を観戦し松井の高校生離れしたバッティングを目の当たりにした監督の[[馬淵史郎]]は、その後星稜高校の練習も偵察し{{Refnest|group="注"|山下は馬淵が練習を偵察に訪れていることに気がつかなかったという{{Sfn|Number|2010|p=46}}。}}、改めて松井のパワーに驚くことになる。ノンフィクションライターの[[中村計]]はこのとき馬淵が「腹をくくった」と書いている{{Sfn|中村計|2010|p=87}}。
 
=== ミーティング ===
明徳義塾の河野和洋は2年生の終わりから[[全国高等学校野球選手権高知大会|高知大会]]直前までピッチャーから離れていた。しかし投手力の不足を感じた監督の指示により高知大会を投げさせられ、決勝では完投も果たしていた。河野自身もコントロールには自信を持っており、周囲の仲間も「エースは事実上、河野だった」と語っている{{Sfn|中村計|2010|pp=26-27}}。星稜との試合を前に何度となく敬遠を匂わせた発言をしていた馬淵だったが、具体的にいつ選手たちに「敬遠」を指示したかはやや錯綜している。捕手の青木は8月8日の抽選会の日の午後に監督から「全部敬遠するぞ」と指示されたと回想している{{Sfn|中村計|2010|p=84}}。しかしショートの筒井によればその日の夜のミーティングで敬遠という言葉を使わずに「松井抜きで考えるから」と伝えられた{{Sfn|中村計|2010|p=85}}。一方で河野の証言によれば8月13日の夜にミーティングを終えた後で、先発を任せること、そしてやはり「松井を相手にしない」ことを伝えられた{{Sfn|別冊宝島|2008|p=121}}。また、試合前日の宿舎での全体ミーティングで馬淵は「四番打者(松井)でファーストベースが空いている時は歩かせ、五番六番で勝負する」と伝えている。
 
さらに試合前、馬淵は意図的に四球を与えているとは思われないよう「演技」することを選手に求めていた{{Sfn|別冊宝島|2008|pp=122-123}}。つまり、捕手は座ったままボールを受け、投手もストライクが入らないと言う風に首をかしげ、外野は松井の打席のたびにフェンス際まで下がるようにする、という指示である{{Refnest|group="注"|馬淵自身が認めているのは、捕手を立たせないという指示だけである{{Sfn|中村計|2010|pp=111-112}} }}。
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== 試合経過 ==
この試合で明徳義塾は、星稜の4番打者・松井秀喜に対して「全打席敬遠」作戦をとる。明徳義塾の先発投手・河野和洋は、松井に5打席全て[[ストライクゾーン]]から大きく外れるボール球を投げ、四球を与えた。公式記録は、捕手が初めから立った状態で与えた四球ではなかったため、「故意四球」ではなく「[[四球]]」となっている。
 
松井が最初の打席は1回表、二死から3番の山口が[[三塁打]]で出塁し、星稜の先制点のチャンスで迎えた。しかし松井は「当然のように」{{Sfn|Number|2010|p=46}}四球を与えられ、一塁へ歩かされた。
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5回表の一死一塁では、一塁走者がいるにもかかわらず、敬遠を実行。スタンドは完全にどよめきに変わった。
 
3-2と明徳義塾1点リードの7回表、松井の第4打席では二死無走者から意図的な四球を与える。スタンドからからは「勝負、勝負!」の連呼と、明徳義塾に対しての野次が飛ばされただけではなく、一塁側アルプススタンドの明徳義塾の応援席からも「土佐っ子なら逃げずに勝負しろ!」といった野次が飛び始めた<ref>甲子園スーパースター名勝負!!感動を再び.{{Full|date=2012年9月}}</ref>。
 
さらに9回表の最終打席(二死三塁)でも松井に四球が与えられた時には、堰を切ったように球場内は野次と怒号に包まれるという、高校野球では史上まれに見る異様な雰囲気となった。星稜の三塁側応援席や外野席からは[[メガホン]]などの野球グッズやゴミなどの物が大量に投げ込まれ、さらに一般の観客はおろか、この敬遠行為で怒りが頂点に達した星稜の応援団からも、河野ら明徳義塾ナインに対する「帰れ」コールや「殺すぞ」などのブーイングが起こった<ref group="注">ベンチ入りできずに応援席に入った野球部員を含めて、松井へのこの露骨な敬遠行為に激怒した星稜関係者は多かった。</ref>。これにより審判はタイムを掛け、試合は一時中断となり、ボールボーイや星稜の控え選手たちが投げ込まれた物を片付けに走った{{Sfn|中村計|2010|pp=147-148}}{{Sfn|Number|2010|p=47}}。この時、一塁上にいた松井は、憮然とした表情でその光景を見つめていた。
 
その後、一塁走者の松井が二盗して二死二・三塁となり一打逆転の好機ともなったが、次打者の月岩信成は三塁ゴロを打ってアウトとなった。明徳義塾は1点差で逃げ切って勝利を収め、結果的に松井への全打席四球策は成功した格好となった。
 
試合終了の挨拶の後、両チームで握手を交わした選手は4、5人程度であり、松井を含め他の星稜の選手は、無言の抗議の意味で、明徳義塾の選手と握手を交わさずにベンチ前へ急いだ。明徳義塾の校歌演奏の際には、球場全体から観客のブーイングや「帰れ」コールの大合唱が大きく鳴り響き、明徳義塾の校歌が聞こえなくなるほどであった。校歌斉唱後、勝った明徳義塾の選手が引き上げるなかブーイングが鳴り止まなかったが、負けた星稜の選手に対しては沢山の拍手が送られていた。
 
=== 松井の5連続敬遠内訳 ===
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|HSP=河野 - 青木
|PU=田中
|BU=本郷頼住植村
|Note2=試合時間:2時間7分
}}
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== 3回戦 ==
星稜戦に勝った明徳義塾の宿舎には、試合終了直後から「選手に危害を加える」などの抗議や嫌がらせの[[電話]]と投書が相次いだ(この宿舎には明徳義塾が出場した際に、その後何年も同じ嫌がらせが続いたという)。また宿舎の周りには、明徳義塾の馬淵監督や選手達の身を守るために、[[警察官]]や[[パトロールカー|パトカー]]が出動するという厳戒態勢がしかれた{{Sfn|中村計|2010|pp=248-249}}。マスコミ陣も大勢が殺到、その影響により明徳の関係者は、宿舎から自由に外出さえも出来ない状態となってしまい、馬淵監督自身も「タバコさえも買いに行けない」と言うほどであった。また、明徳の宿舎から練習グラウンドへ外出する際も、多くの警備員にガードされながらの移動となった。その後、3回戦の抽選会に訪れた明徳の筒井主将に対して、スタンドから野次を飛ばす者もいた。
 
[[1992年]](平成4年)[[8月22日]]、明徳義塾は3回戦で[[広島県立広島工業高等学校|広島工業]](広島)と対戦した。甲子園のスタンドには、あちこちに多くの警備員や警察官が配備された。広島工業の応援席では父母の会により「明徳義塾高校はルール違反をしたわけではなく、選手に何の罪もありません。我が県工野球部の場合でも同じ作戦を採用したかもわかりません」{{Sfn|中村計|2010|p=253}}と記されたビラが配られた。この年に明徳義塾は広島工業と練習試合で2試合戦い、2試合とも明徳義塾が圧勝していたが、この甲子園での明徳義塾は、前試合からの騒動による精神的ダメージはぬぐえず、本来のプレーをほとんど発揮できないまま、広島工業に0-8と大敗を喫した。
 
その後宿舎で開かれたミーティングで馬淵監督は部員達を前に思わず号泣し、その監督の涙にもらい泣きする選手がほとんどであったという。河野投手によればこの時、馬淵の言葉をハッキリ聞き取れたのは「おまえらはようやった」の一言だけとの事だった{{Sfn|中村計|2010|p=256}}。
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== その後 ==
{{出典の明記|section=1|date=2012年9月}}
明徳義塾の監督の馬淵は、世間を大きく騒がせ迷惑を掛けたお詫びにと、明徳義塾の学校長に野球部監督の辞表を提出しようとした。しかし、学校長は「間違っていることをしたんじゃないんだから。あそこで監督を辞めさせたら、それこそ教育にならんでしょう」{{Sfn|中村計|2010|p=260}}との考えから辞表を受け取らずに慰留、馬淵はそのまま野球部監督を続けた。
 
星稜は秋の[[第47回国民体育大会|べにばな国体]]に、2回戦敗退ながらも異例の選出となった(明徳義塾は選出)。松井は、国体決勝戦の対[[尽誠学園高等学校|尽誠学園]]戦の最後の打席で高校通算60号の本塁打を放つなどの活躍により、星稜高校は国体優勝し前年の[[明治神宮野球大会]]に続くシーズン二冠を達成した。
 
松井は[[1994年]](平成6年)発売の『[[ドカベン]]』秋田文庫第6巻の巻末解説インタビューで5打席連続敬遠に触れ、[[水島新司]]漫画業50年の祝福コメントを寄せた時も5打席連続敬遠に触れている<ref>{{Cite journal |和書 |date = 2007-08-02 |journal = [[週刊少年チャンピオン]] |publisher = [[秋田書店]] |pages = {{要ページ番号|date=2015年5月}} }}</ref>。対戦投手の河野とは番組の企画などで対面している。
 
また、テレビ番組『[[KYOKUGEN2013]]』の企画にて、「21年後の第6打席」として、両者は勝負に挑んだ<ref>{{Cite web |date = 2013-12-29 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/12/29/kiji/K20131229007285720.html |title = あの5打席連続敬遠から21年…松井VS河野“真剣勝負” |publisher = [[スポーツニッポン]] |accessdate=2015-05-13 }}</ref> (結果は、フルカウントからの[[四球|フォアボール]])。
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星稜の5番打者月岩は松井敬遠後に奮起して打席に立ったものの5打席0安打(スクイズの1点のみ)だったことで、石川に帰った後地元の人からは後ろ指をさされ、自宅には敬遠の試合の感想を求める記者が殺到し、嫌がらせの投書が相次いで送られるなど精神的に堪えてしまい、進学が決まっていた大学の([[大阪経済大学]])野球の練習に参加するが敬遠の試合のことで周囲にからかわれ、その後すぐに退学してしまった{{Sfn|中村計|2010|p=165}}。しばらくは、自分を取り巻くすべてを投げ出して野球から離れていたが、24歳から軟式野球という形で再開し、少しずつ前打者が5連続敬遠された試合について振り返ることができるようになった{{Sfn|中村計|2010|p=166}}。軟式野球では逆に敬遠される立場になり、敬遠後に次の打者にアドバイスをするようになったという{{Sfn|中村計|2010|p=166}}。月岩は2003年に松井がメジャー初年度の本拠地開幕戦において前打者の[[バーニー・ウィリアムス]]が敬遠された後の打席で松井がホームランを打ったのをテレビで見た時、「このあたりが違う」と思ったという{{Sfn|中村計|2010|p=166}}。
 
実際には、無条件で相手に走者1人を与える敬遠作戦は、後続の打者を封じることができなければ逆効果なのであり、馬淵が全力を挙げて対策を行ったのはこの5番打者封じることであった。
 
馬淵は雑誌インタビューで「私は今でも間違った作戦だったとは思っていない。あの年の星稜は、高校球児の中に1人だけプロがいるようなものだった。あれ以前も、あれ以降も、松井くんほどの大打者と僕は出会っていません。甲子園で勝つための練習をやってきて、その甲子園で負けるための作戦を立てる監督なんておらんでしょ? 勝つためには松井くんを打たせてはいかんかった」<ref>{{Cite web |date = 2011-08-03 |url = http://www.news-postseven.com/archives/20110803_27264.html |title = 松井秀喜5連続敬遠指示の監督 「人を敬うからこそ敬遠」 |publisher = NEWSポストセブン |accessdate = 2012-09-02 }}</ref>と述べているように、作戦そのものが間違っていたと認めたことはない。一方で「ただ、46歳の大人になった今振り返れば、大人の作戦のために17・18歳らの子供達に嫌な思いをさせてしまったこと、特に松井の次の打者に迷惑をかけてしまったことに気づかされます」<ref>{{Cite book |和書 |author = [[田中章義]] |title = バットマン物語 松井秀喜の真実 |year = 2003 |publisher = [[講談社]] |pages = 61-62 |isbn = 4062116898 }}</ref>とも語っている。