「ヤッシャ・ハイフェッツ」の版間の差分

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| Occupation = [[ヴァイオリニスト]]
| Years_active = [[1911年]] - [[1972年]]
| Label = [[RCAレコード]]aa
| Production =
| Associated_acts =
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ハイフェッツは[[ロシア帝国]]領[[ビリニュス|ビルナ]] (現在の[[リトアニア]]の首都) に[[ユダヤ人]]として生まれた。日本ではHeifetzという綴りを[[ドイツ語]]風に読んでハイフェッツと表記することが定着しているが、もとは[[ヘブライ語]]のחפץ(ヘフェツ。「喜び」を意味する)に由来する[[イディッシュ語]]の苗字であり、ヘイフェツと発音される。
 
3歳でヴァイオリンを始め、神童と呼ばれ、5歳で地元の音楽院で[[レオポルト・アウアー]]門下のイリヤ・ダヴィドヴィチ・マルキン<ref>[http://news.google.com/newspapers?nid=1755&dat=19530719&id=vHYcAAAAIBAJ&sjid=zmQEAAAAIBAJ&pg=1499,2726865]</ref>に師事、7歳で[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]の[[ヴァイオリン協奏曲 (メンデルスゾーン)|ヴァイオリン協奏曲]]を演奏し、デビューを果たした。[[1910年]]には、レオポルト・アウアーに師事するため、[[サンクトペテルブルク音楽院]]に入学した。12歳で[[アルトゥール・ニキシュ]]に招かれ[[ベルリン]]デビューを果たすと、同年ニキシュの[[指揮 (音楽)|指揮]]で[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]と演奏している。10代のうちに[[ヨーロッパ]]の大部分を訪れている。
1958年から[[南カリフォルニア大学]]で後進の指導をする。1972年に演奏活動から退いた。[[1987年]]に[[ロサンゼルス]]にて死去。
 
[[1917年]]には[[カーネギー・ホール]]で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]デビューを果たす。同年の[[ロシア革命]]を避けるため、そのままアメリカ在住の道を選び、[[1925年]]にアメリカの[[市民権]]を得た。そんな時代を経て、世界中を演奏旅行しながら多数の録音も行う演奏活動を長く続けることとなる。音楽のみならず興味を持ったことに対する極度の完璧主義と、[[アスペルガー症候群]]と思われる潔癖性癖の持ち主だったが、現在ではその早期に完成された演奏スタイルと音楽に対する哲学的造詣の深さからも、高度な精神活動を営む高知能者[[ギフテッド]]であったことが指摘される。1958年から[[南カリフォルニア大学]]で後進の指導をする。1972年に演奏活動から退いた。[[1987年]]に[[ロサンゼルス]]にて死去。
 
孫のダニー・ハイフェッツ([[:en:Danny Heifetz]])はアメリカ出身のロック[[ドラマー]]で、Mr. Bungleなどのバンドで活動している。