「オリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア」の版間の差分

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[[1858年]]、[[ハーバード大学]]入学。『ハーバード・マガジン』誌の編集者になる。同誌にエッセー「書物」を発表し、「人は神の法に従って別の人間を所有しているのか?」と奴隷制反対論に立ち、論争になる。[[1861年]]同大卒業後に[[南北戦争]]では自ら志願して[[マサチューセッツ州|マサチューセッツ]]軍に入隊し、[[ボールズブラフの戦い]]、ウィルダネスの戦いなどで3度も重傷を負う。除隊後は[[ハーバード・ロー・スクール]]に入学し、優秀な成績で卒業する。その頃[[ウィリアム・ジェイムス]]と知り合う。
 
[[1866年]]、ボストンで[[弁護士]]として勤務する傍ら、母校で講義を行い、[[1882年]]にハーバード・ロー・スクール教授に就任、母校で講義を行う。[[金子堅太郎]]の家庭教師も勤めた。
 
[[1881年]]、『コモン・ロー』({{Lang|en|The Common Law}})を出版。1882年、ハーバードロースクール教授就任、同年、マサッチューセッツ州最高裁判事に任命される。1897年『法の小道』発表。[[1899年]]、{{仮リンク|マサチューセッツ最高裁判所|en|Massachusetts Supreme Judicial Court}}首席裁判官に任命される
 
[[1899年]]、{{仮リンク|マサチューセッツ最高裁判所|en|Massachusetts Supreme Judicial Court}}首席裁判官に任命される。
 
[[1902年]]、[[セオドア・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]から連邦最高裁判所陪席裁判官に任命される。以後、{{仮リンク|ロックナー対ニューヨーク州事件|en|Lochner v. New York}}(1905年)、コペジ事件(1915年)、[[シェンク対アメリカ合衆国事件]](1919年)等数々の著名な判決に関わる。「[[ジョン・マーシャル]]に次ぐ偉大な判事」と呼ばれた。[[1932年]]退官。
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== 思想 ==
『コモン・ロー』における「法の生命は論理ではなく、経験であった。」({{Lang|en|"The life of the law has not been logic; it has been experience."}})との一言は有名。生涯にわたって哲学書は一冊も書かなかったが、形而上学クラブのメンバーの一人で[[プラグマティズム]]で著名な[[ウィリアム・ジェームズ]]らと親交があった<ref>鶴見、2008、pp105-118</ref>。チョンシー・ライトから影響を受ける。
 
『コモン・ロー』における「法の生命は論理ではなく、経験であった。」({{Lang|en|"The life of the law has not been logic; it has been experience."}})との一言は有名。この経験とは、個人的なものでなく、集団的な一般人のもの、つまり、陪審員のものであって、命題の形をもたない。『法の小道』において、個々の裁判の結果を決めるのは、法ではなく、裁判官たちが法と呼んでいるものである。現に法廷において裁判官たちがなそうとしていことの予測が法の名において理解しているものであり、それ以上のものではないとの法予測理論を発表した。{{仮リンク|グラント・ギルモア|en|Grant Gilmore}}によれば、[[クリストファー・コロンブス・ラングデル]]と共に{{仮リンク|法形式主義|en|Legal formalism}}を代表する一人ともされるが、経験や行為を重視し、法学を裁判の結果を予測する学問であるととられる見方はまさにプラグマティズムに基づくものであるとされ、[[法社会学|社会学的法学]]の祖ともされる。自らの哲学がプラグマティズムであることを認めたことはなく、自身の哲学を「ベタビリタリアニズムの哲学」(賭けが可能だという信念の哲学)と後年称した。
 
== 脚注 ==