「アグネス・ザワツキー」の版間の差分

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両親はポーランド人で、アグネスが生まれる直前の1994年にシカゴに移住した。
兄が1人いる。
 
スケート選手は裕福な家庭が多いが、アグネスは母子家庭で育ち、母は[[ブルーカラー]]で、スケートを続けさせるための資金が足りず自己破産もした異例の背景を持つ。
 
両親はアグネスが3歳の時に離婚、父は10歳の時に死亡した。
多額の費用がかかるフィギュアスケートで、母ジョランタはベビーシッターや介護などの[[ブルーカラー]]で週7日働き資金を捻出した。
スケーターを夢見ていたが家が貧しく通うことができなかったジョランタは、娘には不自由をさせないと誓っていた。
母が10時間以上働くときは祖父が車で送り迎えをし、祖母が食事を作り、一家でアグネスを支えた。
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1999年にスケートを始める。
一般向けの安いフィギュア教室を開いていたシカゴのリンクに通い始め、そこで才能を見出された。
 
2007年にノービスクラスで[[全米フィギュアスケート選手権|全米選手権]]地区予選に初出場、本選にまで進出し4位となった。
 
20008-2010年シーズンにはジュニアクラスに昇級本選進出はならなかったが、[[トム・ザカライセック]]の指導を受けるため、コロラド州スプリングスに引っ越した。

2009-2010年シーズンに全米選手権で優勝。初めての国際大会となった[[2010年世界ジュニアフィギュアスケート選手権|世界ジュニア選手権]]では2位となった。なおこの世界ジュニア選手権でメダルを獲得したアメリカの選手はザワツキーだけであった。
初めての国際大会、しかも世界選手権でいきなり2位という成績は大変なことで、この成績のおかげでスケート連盟からいくらかの支援を受けられるようになった。
 
2010-2011年シーズン、シニアクラスに昇級。初めてのシニアでの国際試合となった[[2010/2011 ISUグランプリシリーズ|グランプリシリーズ]]の[[2010年スケートカナダ|スケートカナダ]]では1番滑走からSPで3位につけたが、FSでジャンプのミスが響き6位。続く[[2010年ロステレコム杯|ロステレコム杯]]でもSP2位からFSでミスを連発し4位と、あと一歩で表彰台を逃した。しかし初めてシニア選手として臨んだ全米選手権ではピューターメダルを獲得し、[[2011年世界ジュニアフィギュアスケート選手権|世界ジュニア選手権]]では2大会連続で表彰台に上った。
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2012-2013年シーズン、[[2012年USインターナショナルクラシック|USインターナショナルクラシック]]で優勝し、国際大会での初優勝を飾る。3年連続出場となった[[2012年ロステレコム杯|ロステレコム杯]]で3位となり自身初のグランプリシリーズのメダルを獲得した。全米選手権ではSP2位からFSで7位と後退し、2年連続の3位。
 
2013-2014シーズン、2011年まで師事していた[[トム・ザカライセック]]にコーチを戻した。
ソチオリンピック代表選考も兼ねた全米選手権で昨年から大きく順位を落とし11位となり、念願のオリンピック出場はかなわなかった。
<ref>[http://web.icenetwork.com/news/2013/10/09/62745704 Catching some Z's: Zawadzki lands with Zakrajsek]</ref>6月には2014-2015シーズンの試合を欠場することを発表した。<ref>[http://web.icenetwork.com/news/2014/06/18/80380792 Zawadzki decides to take off 2014-15 season]</ref>
 
== 主な戦績 ==