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東宝退社後の[[1970年代]]後半からは、『[[ダイナマイトどんどん]]』([[1978年]])、『[[近頃なぜかチャールストン]]』([[1981年]])、『[[ジャズ大名]]』([[1986年]])などを監督。『[[大誘拐]] RAINBOW KIDS』([[1991年]])では[[日本アカデミー賞]]最優秀監督賞、最優秀脚本賞を受賞し、持ち味の一つである娯楽色をさらに前面に押し出した作品が多くなっていく。
 
[[1995年]]、『[[EAST MEETS WEST]]』で初の米国ロケ中に言語障害を起こし、[[硬膜下血腫]]と診断される。その後も軽い[[脳梗塞]]などを起こし、言語が不明瞭であった。『[[助太刀屋助六]]』では主演の[[真田広之]]が伝令など補佐役を務めた舞台挨拶などでも傍につき、会場の反応などを伝えていた。ただし、インタビューや講演などではかなり古い作品についても答えており、制作意欲も依然旺盛であった。『助太刀屋助六』の舞台挨拶では、張りのある「ヨーイ、スタート!」の声を披露している。
 
[[2005年]][[2月19日]]、食道がんのため[[神奈川県]][[川崎市]][[多摩区]]の自宅で死去。享年81。墓所は鳥取県米子市の西念寺、川崎市多摩区春秋苑。2002年公開の時代劇『助太刀屋助六』が最後の作品となった<ref name="47news"/>。