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『'''高麗史'''』(こうらいし)は、[[朝鮮]]の[[高麗]]王朝([[918年]] - [[1392年]])のことを記した[[紀伝体]]の官史。編纂は[[李氏朝鮮]]の[[鄭麟趾]]らによって行なわれ、[[文宗 (朝鮮王)|文宗]]元年([[1451年]])に完成した。成立の際、高麗国王歴代の実録をはじめ多くの公私文書<ref name="高麗実録">朝鮮王朝実録に相当する高麗王朝実録があったとされる。この実録の存在は、世宗実録からも存在が確認されるが、高麗史成立後の存在は不明となっている。具体的には、高麗の実録は世宗 22年までは忠州開川寺史庫に収蔵されてから 高麗史纂修のために京中に輸送されて、纂修が終わった後の行方ははっきりしない。
出典は[http://e-kyujanggak.snu.ac.kr/YDG/YDG_HEJ.jsp?ptype=hej&subtype=04]である。
 
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</ref>・書籍が参照されたが、すべて焚書または消失<ref name="太祖">李氏朝鮮 太祖の時代に 「書雲觀」等の記録を焚書した。さらに一般民の史書の所持と輸入は厳しく禁止していた。具体的には[[明朝會典]] [[皇明通紀]] [[明紀輯略]]等多岐にわたる。
例えば、平安道の儒生 桂徳海が中国からの史書を所持していた事件([[1771年]])で断罪されている。</ref>し、大部分は現存しないので、この『高麗史』と独立に編纂された春秋館編纂の[[編年体]]形式『[[高麗史節要]]』([[1452年]])が高麗時代の史書となる。
 
== 概要 ==
[[1392年]]に[[李成桂]]の命で、[[鄭道伝]]を中心に編年体の『高麗国史』が[[1395年]]に完成した。ただし、高麗は国内的に[[皇帝]]を称していたため、[[朱子学]]的に中国[[明朝]]への配慮で、用語を格下のものに改める必要があったこと、李成桂が権力を握り簒奪するまでの経緯の記述などが問題となった。[[1398年]]に[[第一次王子の乱]]で鄭道伝も倒れる。[[1414年]]に[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]が[[河崙]]・卞季良らに改修を命じ、[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の代になって[[1421年]]に卞季良・柳観らが完成させた。[[1424年]]に柳観らが再び改修を行い、更に辛禑・辛昌を偽の王族とする名分論が高まり、[[1443年]]に権踶・申槩らが改修したが、不出来として公開されなかった。最終的に[[金宗瑞]]・鄭麟趾らによって、編年体を紀伝体に改めて『高麗史』が成立した。従来の編年体の原稿は、『高麗史説要』の編纂に活用されている。
 
日本では江戸時代に1部のみ輸入され、[[前田綱紀]]と[[徳川光圀]]が競り合った結果[[加賀藩]]が入手したが、コレクションとして死蔵されている。日本において朝鮮半島史・日朝関係史の典拠となったのは、光圀が刊行させた『[[東国通鑑]]』であり、これは[[明治]]初期まで続いた。『高麗史』を参照した研究書は、[[1891年]]の山田安栄による『伏敵編』が最初とされる。
 
== 構成 ==
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* 表 巻第1、2の2巻(高麗の宗主国の暦年と高麗暦年の表)
* 列伝 五十巻の50巻 后、子、重臣、逆臣等
*: 恭譲王から禅譲で王位を譲られた[[李氏朝鮮|朝鮮王朝]]の始祖[[李成桂]]とその特殊な経緯もあって、第32, 33代高麗王の王<span class="Unicode">[[王ウ (高麗王)|禑王]]</span>、[[王昌 (高麗王)|昌王]]は偽の王族として 王権保持者ではなく、辛禑 昌と卑称で記述している。
 
合計 137巻となっている。