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[[1933年]]、[[中国共産党]]に入党。中華人民共和国の建国後は、[[中国共産主義青年団]](共青団)第一書記、[[陝西省]]党委員会第一書記などを歴任したが、[[文化大革命]]が始まると[[1967年]]に実権派と批判されて失脚。後に党主席となる[[華国鋒]]は、胡耀邦が[[湖南省]]党委に下放された時の部下だった。
 
文革後期の[[1972年]]に復活。[[鄧小平]]が2度目の復活を果たした[[1975年]]に[[中国科学院]]副秘書長となり、鄧小平が打ち出した「全面整頓路線」(軍隊、地方の党・行政組織、工業、農業、商業、文化、科学技術の整頓・再建)を推進し、優秀な人材の抜擢や育成などを行う。翌年、[[第1次天安門事件]]が発生して鄧小平が再失脚すると、胡耀邦もともに失脚した。さらに[[1977年]]、鄧小平の再復活にともない、胡耀邦も復活するなど、胡耀邦は鄧小平と浮沈をともにした。鄧小平の復活によって、胡耀邦は[[中国共産党中央組織部|党中央組織部]]長となり、建国以来、特に文化大革命中に冤罪で失脚した長老たちや右派分子と認定されていた者の名誉回復を行った

さらに、[[1978年]]、党の理論研究の場である[[中国共産党中央党校|中央党校]]副校長を兼任しており、そのとき南京大学の哲学の教授であった胡福明の論文「実践こそ真理を検証する唯一の基準である」に目をとめた<ref name="tabata58">田畑(1995年)58ページ</ref>。この論文をもとに、華国鋒の拠り所となっていた「[[二つのすべて]]」を批判し、文革路線からの脱却を図る鄧小平を援護した<ref name="tabata58"/>[[1978]]12月の[[中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議|第11期3中全会]]では鄧小平の実権掌握に貢献、同会議において胡耀邦は[[中国共産党中央政治局|中央政治局]]委員に昇進し、党中央秘書長兼[[中国共産党中央宣伝部|中央宣伝部長]]に任命された。[[1980年]]2月に開催された[[中国共産党第十一期中央委員会第五回全体会議|第11期5中全会]]において、[[中国共産党中央政治局常務委員会|中央政治局常務委員]]・[[中国共産党中央書記処|党中央書記処]]総書記に就任。
 
以後、鄧小平のもとで文革の清算と改革開放政策が進められる中、[[1980年]]9月、党主席・[[中華人民共和国国務院総理|国務院総理]](首相)だった華国鋒は、経済政策や文革への姿勢などを批判されて総理を辞任した(後継は[[趙紫陽]])。さらに[[1981年]]の[[建国以来の党の若干の歴史問題についての決議|第11期6中全会]]で華国鋒は党主席をも解任され、胡耀邦が後継の党主席に就任した。鄧小平中央軍事委員会主席・胡耀邦総書記・趙紫陽首相によるトロイカ体制が確立され、この頃の胡耀邦は「天が落ちてきても胡耀邦と趙紫陽が支えてくれる」と鄧小平が語るほどの信任を受けていた。
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[[1989年]][[4月8日]]の政治局会議で熱弁を振るった直後、[[心筋梗塞]]のため倒れ、一旦は意識を取り戻したものの2回目の発作を起こし、[[4月15日]]に死去した<ref name="inagaki104">稲垣(2015年)104ページ</ref>。その後、胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生デモは激化していった<ref name="inagaki104"/>。[[五・四運動]]の70周年記念日にあたる[[5月4日]]には北京の学生・市民10万人がデモと集会を行い、[[六四天安門事件|第二次天安門事件]]へと発展した。ここで趙紫陽総書記も学生運動に同情的な発言を行ったことで、鄧小平ら長老の鎮圧路線を妨害するものとされて失脚した。
 
胡耀邦は西側の背広を真っ先に着込み、フォークとナイフを使う、合理的なことは何でも取り入れる改名的な指導者であったが、それが長老左派の批判を受け、失脚につながった<ref name="inagaki104"/>。
胡耀邦は国民から愛された開明的指導者だった。長老・保守グループの批判、さらには鄧小平の政治的引き締めの要求にも応じなかったため最後は解任されたが、中華人民共和国はその大きなツケを天安門事件として支払うことになった。
 
胡耀邦の墓は中国首脳の指定墓地である北京・八宝山公墓ではなく、江西省の共青城にある<ref name="inagaki104"/>。ここは1950年代初期、中国共産主義青年団(共青団)メンバーが開墾に参加し、その後胡も3度訪問したことから、共青城市という新たな市ができた<ref name="inagaki104"/>。そして李昭夫人の希望により、胡の墓がここに建てられた<ref name="inagaki104"/>。
 
[[2005年]][[11月18日]]、党中央は胡耀邦生誕90周年の座談会を開き、[[温家宝]]、[[曽慶紅]]、[[呉官正]]らが出席した。当初は[[胡錦濤]]総書記が出席し発言する予定だったが、[[江沢民]]元総書記の反対により出席は見送られた。[[ロイター通信]]によれば、温家宝も「もし胡耀邦を記念するなら、趙紫陽はどうするのか、[[六四天安門事件|六四]](第二次天安門事件)はどうするのか」と発言したという。
 
温家宝首相は、第二次天安門事件のきっかけにもなった胡耀邦を「師」と仰いでいる。[[2010年]][[4月15日]]、温家宝は人民日報に胡耀邦を偲ぶ回想記を発表した。「胡氏が現場の状況を理解しようとしていたことは明白であり、『(指導者は)民衆の苦しみを子細に観察し、直接の資料を把握しなければならない』という胡氏の言葉が耳に残る」「清廉潔白で親しみやすかった姿が今でも懐かしさとともに思い浮かぶ」とした。温家宝は胡耀邦の死去の際に、入院先に真っ先に駆けつけたという。また、温家宝は毎年旧正月の時期になると胡耀邦の居宅を訪問し、胡耀邦の肖像画を見ることで仕事の原動力になる、と語った<ref>『産経新聞』2010年4月16日付記事。</ref>。
この記事の政治的意味は議論が分かれるところである。
 
==『大地の子』と胡耀邦==
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==参考文献==
* 田畑光永著『鄧小平の遺産-離心・流動の中国-』(1995)年岩波新書
* 高原明生・前田宏子著『シリーズ中国現代史5 開発主義の時代へ1972-2014』(2014年)岩波新書(改革開放をめぐる攻防、執筆担当;前田宏子)
* 稲垣清著『中南海 知られざる中国の中枢』(2015年)岩波新書