「野田誠三」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
4行目:
 
==人物==
[[兵庫県]][[加西市]]出身。[[旧制中学校|旧制]]姫路中学(現[[兵庫県立姫路西高等学校]])を経て、第八高等学校(現[[名古屋大学]])[[京都帝国大学]][[工学部]]卒業後、[[1922年]]に阪神電鉄へ入社。[[1924年]]から甲子園球場建設の設計主任として携わり、[[1941年]]に取締役、[[1951年]]に社長に就任。[[1968年]]から4年間、会長を務めた。社長任期中には各駅停車用の車両として「[[ジェットカー]]」と呼ばれる高加減速電車を投入し、また[[神戸高速鉄道]]を介して[[山陽電気鉄道]]との相互乗り入れを実現させるなど、戦争被害が大きかった阪神電鉄を見事に「阪神間の大動脈」としてよみがえらせた電鉄史に残る功労者である。また、阪神タイガースのオーナーを[[1952年]]から23年間務め、[[1974年]]には[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入りした<ref>[http://www.baseball-museum.or.jp/baseball_hallo/detail/detail_050.html 公益財団法人野球殿堂博物館]</ref>。1978年3月28日、急性[[心不全]]のため83歳で死去。
 
野田誠三は西宮の老舗酒造家、本野田酒造([[寛政]]3年([[1791年]])創業)の婿養子となったため野田姓となった。「金鷹」と「いろは」の代表銘柄で知られる本野田酒造は、明治28年の日本酒番付で関脇の地位に昇った酒造家である。