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Tahuantinsuyo (会話 | 投稿記録)
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== 来歴・人物 ==
[[アメリカ合衆国]][[ハワイ準州]]([[:en:Territory of Hawaii|Territory of Hawaii]]、生誕当時は米国自治領)生まれ。[[本籍地]]は[[広島県]][[比婆郡]]<ref name="人物阪急球団史" >永井正義『勇者たち=人物阪急球団史=』1978年現代企画室、P38 - 40。</ref>。[[1937年]][[マウイ島]]のハイスクールを卒業して来日し、[[堀尾文人|ジミー堀尾]]の誘いで[[オリックス・バファローズ|阪急軍]]に入団<ref name="人物阪急球団史" /><ref>[[鈴木明]]『昭和20年11月23日のプレイボ-ル』[[光人社]]、2001年、P122 - 123。</ref>。主に二番を打ち、絶妙の[[バント]]や[[ヒットエンドラン|ランエンドヒット]]を成功させた<ref name="人物阪急球団史" />。堅実な守備でも知られ[[1940年]]には第1回の[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]遊撃手に選ばれる。研究熱心で監督の[[三宅大輔]]から積極的に野球理論を学ぼうとした<ref name="阪急ブレーブス黄金の歴史">阪急ブレーブス黄金の歴史 [永久保存版] よみがえる勇者の記憶 1936-1988、[[ベースボール・マガジン社]]、2011年、P35</ref>。[[19431938]][[9月24日]]の[[中日ドラゴンズ|名古屋軍]]戦(甲子園)では遊撃手として12[[補殺]]のプロ野球記録<ref name="人物阪急球団史" /><ref name="阪急ブレーブス黄金の歴史" />。[[1940年]][[11月6日]]の[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦(後楽園)で1試合6[[併殺]]のプロ野球記録を完成させた<ref name="人物阪急球団史" />。戦時中、多くの日系二世ということあり応外国人選手が、アメリカ政府の喚命令を受け帰国したが、上田は日本の[[国籍]]を取得し日本留まり<ref name="人物阪急球団史" />、一時中断に追い込まれた[[1944年]]までプレーすることが出来た。戦後プロ野球が再開されると阪急に復帰したが年齢的な衰えは隠せず[[1948年]]限りで現役を引退。生活面は生真面目で選手時代は禁酒禁煙を通したが<ref name="阪急ブレーブス黄金の歴史" />、気が向くと宴席で得意の[[ハワイの音楽|ハワイアン]]を披露する事もあったという<ref name="阪急ブレーブス黄金の歴史" />。
 
引退後は審判員に転向<ref name="阪急ブレーブス黄金の歴史" />。[[1949年]]に[[パシフィック・リーグ]]の審判部に入局し[[1955年]]からは関西審判部所属となる。[[1963年]][[4月]]には辞任した[[二出川延明]]前部長の後を受けてパ・リーグの審判部長に就任、[[1967年]]までつとめた。正確なジャッジには定評があり<ref name="人物阪急球団史" />、特に二遊間の併殺プレーのジャッジが必要な二塁塁審をやらせたら、歴代審判中随一といわれた<ref name="人物阪急球団史" />
 
阪急軍に在籍していた[[1938年]]、[[後楽園球場]]でのとある試合で左翼ポール際に[[本塁打]]を放ったところ、相手チーム監督から「ファウルじゃないのか?」と抗議され、試合が1時間近く中断したことがある。