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[[第二次世界大戦]]後に[[大阪高等学校 (旧制)|旧制大阪高等学校]]文科甲類(英語)に入学するが、[[学制改革]]により翌年[[大阪市立大学]]法文学部法学科(現・法学部)を再受験し入学し直した。当時の文学論の仲間に[[高原慶一郎]]がいた。大学在学中、[[谷沢永一]]主宰の同人誌『えんぴつ』に参加。1952年1月、同人仲間だった詩人[[牧羊子]]([[サントリー|壽屋]]勤務)と結婚。同年[[7月13日]]に、長女[[開高道子]]が誕生。1953年2月、大学在学中に洋書輸入商の北尾書店に入社。1953年12月1日に大阪市立大学卒業。
 
1954年2月22日、すでに壽屋社員であった羊子が育児のため退社するのに伴い、後任者として壽屋宣伝部に中途採用され、PR誌『[[洋酒天国]]』の編集や[[ウイスキー]]のキャッチコピー([[トリスウイスキー]]の「人間らしくやりたいナ」が有名)を手がける。この時代に『[[裸の王様 (小説)|裸の王様]]』で[[芥川龍之介賞|芥川賞]]を受賞、これを機に壽屋を退職し、執筆業に専念する
遅筆で知られ、受賞後第一作となる「文學界」から依頼された原稿を、締め切り間近になっても上げることができなかった。開高は先に「群像(講談社)」に提出していた原稿を持ち帰り「文學界」に提出してその場を凌いだ。しかし、講談社の怒りを買って絶縁状を叩き付けられ、16年もの間講談社から干されてしまう<ref>北康利「佐治敬三と開高健 最強のふたり」講談社</ref>。これを機に壽屋を退職し、執筆業に専念する。
 
1960年、中国訪問日本文学代表団([[野間宏]]団長)の一員として[[大江健三郎]]らとともに中国を訪れ、[[毛沢東]]、[[周恩来]]らと会見。随筆『地球はグラスのふちを回る』では当時の大江とのエピソードが記されている。