「プリンス・ジョンソン」の版間の差分
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[[1952年]]に、リベリアの[[ニンバ郡]]で[[ギオ族]]の両親との間に生まれる。[[1971年]]に陸軍に入隊し、[[1974年]]には中尉に昇格。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]での訓練を経て、リベリア憲兵隊長まで昇格するが自動車事故の負傷により[[1977年]]に除隊した。陸軍在住時はサミュエル・ドウ軍曹の上官だった。[[1980年]]に[[アメリコ・ライベリアン]]の政権を終わらすため、[[クラン族]]出身のドウ軍曹を中心に先住民族出長の軍人らが軍事クーデター起こし政権を握る。しかし[[1985年]]にドウ政権がクラン族優先の政策をしていた為、それに不満を持つギオ族の軍人[[トーマス・クィウォンパ]]らと共にクーデターを起こすが失敗し[[コートジボワール]]へ亡命している。
[[1987年]]に[[チャールズ・テーラー]]によるドウ政権打倒を狙ったリベリア国民愛国戦線 (NPFL) に参加し、[[リビア]]で[[ゲリラ]]訓練を受けた。[[1989年]]にNPFLの軍事司令官としてテーラーと共にリベリアに侵入してリベリア内戦を起こした。しかし、テーラーと政治的な理念などの違いなどで対立し、テーラーから処刑容疑をかけられ同胞のギオ族の兵士らと共に[[1990年]]2月にテーラーが反逆罪でジョンソンを処刑しようとした為、仲間のギオ族らと共にNPFLを離脱し、INPELを結成した。9月9日、サミュエル・ドウ大統領が[[西アフリカ諸国経済共同体|ECOMOG]](西アフリカ平和維持軍)にジョンソンの敵、テーラーを倒し、「ジョンソンとの間で、同盟を組む協議をしたい。祖国は、これまであまりにも戦争に蹂躙されすぎてきた」と言い。ECOMOGの仲介を頼みに、ECOMOG駐屯地に来ていた。その事をECOMOGの将官から知らされた、ジョンソンは、ドウを捕らえるチャンスと見て「主よ!、イエスよ!」と叫び、「私も全く同じ事を考えていた。私も戦争に疲弊している。ドウ大統領は、真の愛国者だ。私は今から彼に会いにでかけ、彼に抱擁して接吻しよう。」と、今からドウに会いに行くと、ECOMOGの将官に伝え、その事はドウ
[[1991年]]には独立民主党 (IDP) を結成したが、INPEL内部での残虐行為が明らかになり、他の勢力から殺人罪の罪などで圧力を受け次第に弱まり、[[1992年]]にINPELを解散し、ジョンソンは[[ナイジェリア]]へ亡命した(ジョンソンによるとナイジェリア軍に強制連行されたらしい)。その後、リベリア国内の不安定な情勢から完全に孤立をし、[[1997年]]ナイジェリアで、[[ラゴス]]にて[[キリスト教]]の牧師になる事を明らかにした。牧師となったその後、ナイジェリアのキリスト教伝道師の預言者[[T・B・ジョシュア]]の仲介で、ジョンソンはドウ一家と和解している。
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