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'''平 貞文'''(たいら の さだふみ<!-- /さだふん-->、[[貞観_(日本)|貞観]]14年([[872年]])? - [[延長 (元号)|延長]]元年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]]([[923年]][[11月138日]]))は、[[平安時代]]中期の[[貴族]]・[[歌人]]。名は'''定文'''と書かれたのも見ら記される。[[桓武天皇]]の玄孫にあたり、。[[近衛府|近衛中将]]・[[平好風]]<!--(よしかぜ)--><!-- リンク先に記事 -->の次男。[[官位]]は[[従五位|従五位上]]・[[府|左兵衛佐]]。[[中古三十六歌仙]]の一人。一般に'''平中'''<!--、'''平仲'''-->(へいちゅう)と呼ばれた<ref>平好風の3三人ののうち真ん中の子だったことに由来する。</ref>。
 
== 来歴 ==
[[貞観_(日本)|貞観]]16年(874([[874]])父・[[平好風]]とともに[[平氏|平姓]]を賜与され[[臣籍降下|臣籍]]に下る。[[寛平]]3年(891([[891]])[[内舎人]]に任官したのち、[[馬寮|右馬権少允]]・[[兵衛府|右兵衛少尉]]を経て、[[延喜]]6年(906([[906]])[[従五位|従五位下]]・[[外衛府|外衛少将]]に叙任。その後は[[三河国#国司|三河]][[国司|介]]・[[侍従]]・右馬助を歴任ののち、延喜19年(919([[919]][[兵衛府|左兵衛佐]]に任じられて主に武官を務めた。延喜22年(922([[922]])従五位上に至る。翌[[延長 (日本)|延長]]元年(923([[923]])6月に[[三河国#国司|三河権介]]に任ぜられるが、同年9月27日に[[崩御|卒去]]
 
== 人物 ==
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色好みとしても有名で「在中・平中」として[[在原業平]]と並び称されるほどだった。後に[[芥川龍之介]]は『好色』でこの平中を描いているほか、[[谷崎潤一郎]]も『[[少将滋幹の母]]』の中で重要な登場人物として平中を描いている。
<!---なお、好風には3人の子があり、その真ん中の子であることから「平中(へいちゅう)」と呼ばれるようになり、後にこれが姓として定着し、平中(ひらなか)姓の祖となった。但し、文献によっては平中姓の祖を父・好風としているものもある。--->
 
== 官歴 ==
『中古歌仙三十六人伝』による。
*[[寛平]]9年([[897年]]) 5月25日:[[兵衛府|右兵衛少尉]]
*[[延喜]]6年([[906年]]) 正月7日:[[従五位|従五位下]]
*延喜10年([[910年]]) 正月13日:[[三河国#国司|三河介]]
*延喜13年([[913年]]) 正月28日:[[侍従]]
*延喜17年([[917年]]) 5月:[[馬寮|左馬助]]
*延喜19年([[919年]]) 正月28日:左兵衛佐
 
== 系譜 ==
* 父:[[平好風]]
* 母:不詳
** 妻:生母不詳の子女
*** 男:安快
*** 男:平兼時
*** 男:平時経
*** 男:平信臣
 
平中(ひらなか)氏は平中の末裔を名乗っている。