「李氏朝鮮」の版間の差分

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{{朝鮮の歴史}}
 
'''李氏朝鮮'''(りしちょうせん、[[朝鮮語|韓国語]][[ハングル]]表記:이씨조선)は、[[1392年]]から[[1910年]]にかけて[[朝鮮半島]]に存在した[[国家]]。李氏朝鮮は比較的古い表現であり、最近は[[朝鮮王朝]]と呼ぶことが多い。[[朝鮮民族]]国家の最後の[[王朝]]で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。'''李朝'''(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。[[高麗]]の次の王朝にあたる。
 
1392年に高麗の武将[[李成桂]]太祖([[女真族]]ともいわれる<ref>
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=== 世祖の中央集権 ===
第6代の[[端宗 (朝鮮王)|端宗]](第5代[[文宗 (朝鮮王)|文宗]]の息子)は11歳で即位したため、政治に関しては官僚が全てを決する形となり王権の空洞化が進んだ。それに伴って他の王族の勢力が強くなり、度々たびたび宮廷闘争などが頻発する様になる。その混乱の中で、文宗の弟であり端宗の叔父である首陽大君は巧みに勢力を拡大し、[[1455年]]に端宗に圧力をけて王位を強制的に剥奪し譲らせ、自ら国王となった([[世祖 (朝鮮王)|世祖]]として即位した。世祖は反対勢力を強力に排除し、王権を集約する。軍政や官制の改造を行い、軍権を強めると共に[[職田法]]を導入して、歳出を抑えた。これらの政策は地方豪族の反発を招き、地方反乱が頻発するが、世祖はこの反乱を鎮圧することで中央集権体制を確立させるのに成功する。一方で、日本とは融和政策を採り外交を安定させると共に、民生を安定させた。しかし強権的な中央集権主義により、自らに服従する功臣達を優遇し、高級官僚は自らの側近で固められ、実力のある者も高位には就けなくなった。これらの世祖に優遇された功臣達は後に[[勲旧派]]と呼ばれる様になる。また、[[儒者]]の多い批判勢力を牽制するために仏教優遇政策を取った。[[1467年]]の[[李施愛の乱]]では批判勢力を弾圧したが、鎮圧に活躍した亀城君{{仮リンク|李浚|ko|귀성군}}([[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の四男{{仮リンク|李ク|ko|임영대군|label=臨瀛大君}}の次男)ら王族が台頭した。
 
=== 勲旧派と士林派の対立と士禍 ===
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=== 秀吉による朝鮮侵攻 ===
[[File:Dong Rae Bu Sun Jaul Do.jpg|250px|thumb|right|東莱城の戦い]]<!--あの亀甲船の復元は考証的に間違いのため-->
その頃、日本を統一([[天下統一]])した[[豊臣秀吉]]は大陸への進出のために[[1589年]]、対馬を通じて、日本に服属し明征討の為の道を貸すべしとする外交を取り始めた。朝鮮側では日本の真意をはかりかね、日本の本意を探るため[[1590年]]3月、[[西人]]の黄允吉を正使、[[東人]]の[[金誠一]]を副使とし、通信使を送ることにした。この使節が日本に滞在している間に、朝鮮内の勢力は西人優勢から東人優勢に変化しており、そのことがその後の判断に影響を与えてしまう。[[1591年]]3月に通信使が帰朝すると正使・黄允吉は、「日本は多くの軍船を用意して侵攻の準備をしている」と報告したのに対し、副使・金誠一は正反対の「秀吉は恐れる必要は無い」と報告をした。相反する報告を受け取った為、西人・東人ともに自派の意見を擁護し論戦になったが、このとき既に東人が朝廷を掌握していたことと王自身が戦争を心理的に忌避していたことなどから「侵攻説をむやみに流布することで民心を乱す行為は良くない」と言う結論に達し、一切の防衛準備を放棄し、またそれに準じる行為も禁止した。しかし[[1592年]]になり、朝鮮の倭館に居た[[日本人]]が次々に本国に帰っていくのを見ると、遅まきながら秀吉の朝鮮出兵は本気であることに気が付き、防衛準備を始めるが、時既に遅しであった。