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{{朝鮮の歴史}}
'''李氏朝鮮'''(りしちょうせん、[[朝鮮語|韓国語]][[ハングル]]表記:이씨조선)は、[[1392年]]から[[1910年]]にかけて[[朝鮮半島]]に存在した[[国家]]。李氏朝鮮は比較的古い表現であり、最近は[[朝鮮王朝]]と呼ぶことが多い。[[朝鮮民族]]国家の最後の[[王朝]]で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。'''李朝'''(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。[[高麗]]の次の王朝にあたる。
1392年に高麗の武将[[李成桂]]太祖([[女真族]]ともいわれる<ref>
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=== 世祖の中央集権 ===
第6代の[[端宗 (朝鮮王)|端宗]](第5代[[文宗 (朝鮮王)|文宗]]の息子)は11歳で即位したため、政治に関しては官僚が全てを決
=== 勲旧派と士林派の対立と士禍 ===
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=== 秀吉による朝鮮侵攻 ===
[[File:Dong Rae Bu Sun Jaul Do.jpg|250px|thumb|right|東莱城の戦い]]
その頃、日本を統一([[天下統一]])した[[豊臣秀吉]]は大陸への進出のために[[1589年]]、対馬を通じて、日本に服属し明征討の為の道を貸すべしとする外交を取り始めた。朝鮮側では日本の真意をはかりかね、日本の本意を探るため[[1590年]]3月、[[西人]]の黄允吉を正使、[[東人]]の[[金誠一]]を副使とし、通信使を送ることにした。この使節が日本に滞在している間に、朝鮮内の勢力は西人優勢から東人優勢に変化しており、そのことがその後の判断に影響を与えてしまう。[[1591年]]3月に通信使が帰朝すると正使・黄允吉は、「日本は多くの軍船を用意して侵攻の準備をしている」と報告したのに対し、副使・金誠一は正反対の「秀吉は恐れる必要は無い」と報告をした。相反する報告を受け取った為、西人・東人ともに自派の意見を擁護し論戦になったが、このとき既に東人が朝廷を掌握していたことと王自身が戦争を心理的に忌避していたことなどから「侵攻説をむやみに流布することで民心を乱す行為は良くない」と言う結論に達し、一切の防衛準備を放棄し、またそれに準じる行為も禁止した。しかし[[1592年]]になり、朝鮮の倭館に居た[[日本人]]が次々に本国に帰っていくのを見ると、遅まきながら秀吉の朝鮮出兵は本気であることに気が付き、防衛準備を始めるが、時既に遅しであった。
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