「若槻禮次郎」の版間の差分

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{{政治家
|人名 = 若槻 禮次郞
|各国語表記 = わかつき れいじろう
|画像 = Reijiro Wakatsuki.jpg
|画像サイズ = 250px
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|国略称 = {{JPN}}
|生年月日 = [[1866年]][[3月21日]]<br/>(旧暦[[慶応]]2年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]])
|出生地 = [[ファイル:Mitsubaaoi.svg{{Flagicon|23px]][[松江藩]]JPN}} [[出雲国]]松江<br/>(現[[島根県]][[松江市]]雑賀町)
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1866|3|21|1949|11|20}}
|死没地 = {{JPN}} [[静岡県]][[伊東市]]
|出身校 = [[帝国大学]]法科大学<br/>(現[[東京大学]])
|前職 = [[大蔵省]][[次官]]
|現職 =
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}}
'''若槻 禮次郞'''(わかつき れいじろう、[[1866年]][[3月21日]]([[慶応]]2年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]([[1866年]][[3月21日]]) - [[1949年昭和]]24年([[昭和1949年]]24年)[[11月20日]])は、[[日本]]の[[大蔵省|大蔵]][[官僚]]、[[政治家]]。[[位階栄典]]は[[正二位]]。[[勲等]]は[[勲一等旭日桐花大綬章|勲一等]]。[[爵位]]は[[男爵]]。[[旧姓]]は'''奥村'''。[[幼名]]は'''源之丞'''。[[号 (称号)|号]]は'''克堂'''。新字体にて'''若槻 礼次郎'''(わかつき れいじろう)と表記されることもある<ref group="注釈">学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書では歴史人物名の表記として「若槻礼次郎」、存命当時の『職員録』などでは「若槻禮次郎」、御署名原本における署名も「若槻禮次郎」(但し「禮」は草書体)である。</ref>。
 
[[貴族院議員]]、[[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|大蔵大臣]](第[[第3次桂内閣|18]]・[[第2次大隈内閣|20]]代)、[[内務大臣 (日本)|内務大臣]](第[[加藤高明内閣|41]]・[[第1次若槻内閣|42]]代)、[[内閣総理大臣]](第[[第1次若槻内閣|25]]・[[第2次若槻内閣|28]]代)、[[拓務省|拓務大臣]]([[第2次若槻内閣|第4代]])などを歴任した。
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== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[松江藩]]の下級[[武士]][[足軽]])奥村仙三郎、クラの次男として生まれる。
 
実母クラは禮次郎が3歳の頃急死した。この頃長男の譲は、父・仙三郎とともに藩命で[[京都]]に近い淀川沿いの山崎で勤務をしていたので、奥村家では11歳のイワが3歳の礼次郎の世話をしながら[[内職]]をし、かつ留守番を務めていた<ref name=sa173>豊田『宰相・若槻礼次郎』173頁。</ref>。
 
奥村家は[[足軽]]の中でも格式の低い家で、[[雑賀町]]の中央に近いところに家を構えることもできず、場末ともいうべき外(はず)れの方の[[借家]]に住んでいたが、礼次郎が生まれてから間もなく父仙三郎は西田中というところに小さな家を新築した<ref name=sa173/>。
 
奥村家は極めて貧乏だったため、[[内職]]のようなことをして、ようやく生活していた。幼少の頃はまだ[[苗字帯刀|帯刀]]であり、[[礼次郎は木刀]]一本腰に差して[[寺子屋]]に通った<ref group="注釈">若槻礼次郎著『古風庵回顧録』によれば、「私の幼少の頃はまだ[[苗字帯刀|帯刀]]であった。私は数え年七つの時、[[寺子屋]]に入ったが一本を腰に差して通ったことを覚えている。しかし、それは抜けない[[木刀]]であった」という。</ref>。
 
小学校を出ると[[漢学]]塾へ通うが、1年後にやめて[[島根県立松江北高等学校|教員伝習校内変則中学科]]に入る。しかし家が貧乏で、学資が続かず在学8~9ヵ月にして中学を辞め、しばらくは山へ[[]]を取りに行ったり、家事の手伝いをしていた。
 
16歳のころから3年程、小学校[[代用教員]]をする。[[明治]]15年([[1883年]])、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]の生徒募集があった。官費で学資がいらないということから受験したが、体格検査ではねられた。
 
その翌年[[司法省法学校]]が官費で生徒を募集することを知り、飛び立つ思いであったが、試験場は[[東京]]まで出て行かなければならない。しかしその費用がなかったので、[[能義郡]]長をしていた[[叔父]][[若槻敬]]に相談し、30円の金を借りて、明治16年([[1884年]]7)7月頃、数えで19の年に松江を出た<ref>『<small>若槻礼次郎自伝</small> 古風庵回顧録 <small>明治、大正、昭和政界秘史</small>』 18-25頁</ref>
 
=== 学生時代 ===
東京では[[大学予備門]]に通っていた[[岸清一]](のち[[法学博士]])の下宿へ転がり込んだ。岸とは血のつながりはないが、近い[[親戚|親類]]であった<ref>『<small>若槻礼次郎自伝</small> 古風庵回顧録 <small>明治、大正、昭和政界秘史</small>』 3-21頁</ref>。やがて狭い下宿を見つけて、そこへ移った
やがて狭い下宿を見つけて、そこへ移った。
 
[[司法省法学校]]の入学試験というのは[[論語]]』『[[孟子]]の解釈と、[[資治通鑑]]の白文訓点の二課目だった。礼次郎は定員50名に対して受験者約1,500名という狭き門を突破して同校予科へ進学した。[[織田萬]]などが同期の入学であった。高等在学中に法学校でも、大学でも、常に[[首席]]であっ受験を支援してくれ。[[荒井賢太郎]]叔父・若槻敬の養子[[安達峰一郎]]とがなりある若槻姓きは安達が二番、あときは荒井が二番というようなことだった
 
明治25年([[1892年]]7)7月、[[帝国大学]]法科を98点5分という驚異的な成績を残し、[[首席]]で卒業した。同期に、後に[[法務大臣|司法大臣]]、[[鉄道省|鉄道大臣]]を歴任した政党政治家・[[小川平吉]]、数期にわたり[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]を務めた官僚政治家・[[水野錬太郎]]、[[常設国際司法裁判所]]所長・安達峰一郎らがいる。若槻は、法学校でも[[帝国大学]]でも常に首席であった。[[荒井賢太郎]]と[[安達峰一郎]]彼の次席を争って
 
=== 大蔵省時代 ===
若槻は[[大蔵省]]に入り、主税局長、[[次官]]を歴任する。この間、帝大時代の師である同郷の[[梅謙次郎]]のもとで、[[和仏法律学校]]・[[法政大学]]の[[民法]]・[[租税法]]講師を務め、政界入り後も理事や顧問に就任している<ref>『法政大学校友名鑑』(1941)</ref>。[[大正]]元年([[1912年]]、[[第3次桂内閣]]で[[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|大蔵大臣]]、大正3年([[1914年]]から同4年([[1915年]]まで[[第2次大隈内閣]]で再度蔵相を務めた。大正5年([[1916年]]、[[加藤高明]]らの憲政会結成に参加して副総裁となる。大正13年([[1924年]]、[[加藤高明内閣|加藤内閣]]で[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]となり、翌年、[[普通選挙法]]と[[治安維持法]]を成立させる。
 
=== 第1次若槻内閣 ===
[[ファイル:R. Wakatsuki at Kenseikai meeting.jpg|thumb|left|200px250px|[[憲政会]]の会合にて]]
{{See also|第1次若槻内閣}}
加藤高明首相在職中死去したため、[[憲政会]]総裁として内相を兼任し組閣。彼の内閣の時期には左派政党で一種、[[社会主義]]的な「[[無産政党]]」が数多く結成された。
 
大正15年([[1926年]]12)12月25日に[[大正天皇]]が崩御し、その日のうちに[[昭和]]と改元された。明けて昭和2年([[1927年]]1)1月、少数与党で臨んだ第52回帝国議会冒頭で、おりからの「[[朴烈事件]]」と「[[松島遊郭疑獄|松島遊郭事件]]」に関して、野党が若槻内閣弾劾上奏案を提出した。若槻は[[立憲政友会]]総裁・[[田中義一]]総裁と[[政友本党]]総裁・[[床次竹二郎]]総裁を[[料亭|待合]]に招いて、「新帝[[践祚]]のおり、予算案だけはなんとしても成立させたいが、上奏案が出ている限りどうしようもない。引っ込めてくれさえすれば、こちらとしてもいろいろ考えるから」と持ちかけた。野党はこの妥協を承諾、「予算成立の暁には政府に於いても'''深甚なる考慮'''をなすべし」という語句を含んだ文書にして三人で署名した。「深甚なる考慮」は内閣退陣を暗示し、予算案成立と引き換えに若槻内閣は退陣し、[[憲政の常道]]に基づき野党政友会が組閣の大命を受ける様取り計らうことを意味する。これで若槻は議会を乗り切ったが、予算が通っても一向に総辞職の気配を見せなかったことから、野党は合意文書を公開、「若槻は嘘つき総理である」と攻撃した。このため謹厳実直な能吏のはずの若槻禮次郎は「ウソツキ禮次郎」と呼ばれる羽目になった。
加藤高明首相が在職中死去したため、[[憲政会]]総裁として内相を兼任し組閣。彼の内閣の時期には左派政党で一種、[[社会主義]]的な「[[無産政党]]」が数多く結成された。
 
また帝国議会終盤の3月14日、[[衆議院]]予算委員会で大蔵大臣・[[片岡直温]]蔵相は野党の執拗な追及に対し、次官から差し入れられた書付に基づき「現に今日正午頃に於て[[東京渡辺銀行|渡辺銀行]]が到頭破綻を致しました」と発言する。実際には東京渡辺銀行は金策にすでに成功していたが、この発言で[[取り付け騒ぎ|預金者が殺到]]し、休業に追い込まれてしまう。これにより[[昭和金融恐慌]]が勃発した。
[[1926年]]12月25日に[[大正天皇]]が崩御し、その日のうちに[[昭和]]と改元された。明けて[[1927年]]1月、少数与党で臨んだ第52回帝国議会冒頭で、おりからの「[[朴烈事件]]」と「[[松島遊郭疑獄|松島遊郭事件]]」に関して、野党が若槻内閣弾劾上奏案を提出した。若槻は[[立憲政友会]]の[[田中義一]]総裁と[[政友本党]]の[[床次竹二郎]]総裁を[[料亭|待合]]に招いて、「新帝[[践祚]]のおり、予算案だけはなんとしても成立させたいが、上奏案が出ている限りどうしようもない。引っ込めてくれさえすれば、こちらとしてもいろいろ考えるから」と持ちかけた。野党はこの妥協を承諾、「予算成立の暁には政府に於いても'''深甚なる考慮'''をなすべし」という語句を含んだ文書にして三人で署名した。「深甚なる考慮」は内閣退陣を暗示し、予算案成立と引き換えに若槻内閣は退陣し、[[憲政の常道]]に基づき野党政友会が組閣の大命を受ける様取り計らうことを意味する。これで若槻は議会を乗り切ったが、予算が通っても一向に総辞職の気配を見せなかったことから、野党は合意文書を公開、「若槻は嘘つき総理である」と攻撃した。このため謹厳実直な能吏のはずの若槻禮次郎は「ウソツキ禮次郎」と呼ばれる羽目になった。
 
また帝国議会終盤の3月14日、[[衆議院]]予算委員会で[[片岡直温]]蔵相は野党の執拗な追及に対し、次官から差し入れられた書付に基づき「現に今日正午頃に於て[[東京渡辺銀行|渡辺銀行]]が到頭破綻を致しました」と発言する。実際には東京渡辺銀行は金策にすでに成功していたが、この発言で[[取り付け騒ぎ|預金者が殺到]]し、休業に追い込まれてしまう。これにより[[昭和金融恐慌]]が勃発した。
 
[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]のあと不景気に悩まされていた[[銀行]]や[[成金]]たちは、ここで一気に倒産の憂き目に会うこととなる。特に[[台湾銀行]]は成金企業の[[鈴木商店]]と深い結びつきを持っていたが、台湾銀行が債権回収不能に陥り、休業すると同時に鈴木商店も倒産し、これは恐慌の象徴的事件ともいえる。台湾銀行の回収不能債権のうち8割近くが鈴木商店のものだったという。
 
若槻内閣は日銀に特融を実施させて経済的混乱の収拾を図るために、台湾銀行救済緊急勅令案の発布を諮るが、[[枢密院 (日本)|枢密院]]は、本来帝国議会で救済法案を可決して対応すべきところ、勅令による手続きは[[大日本帝国憲法|憲法]]違反であるとして否決してしまう。政策実行不能と考えた若槻は4月20日に[[内閣総辞職]]し、政友会の田中義一に組閣の大命が下ることとなる。
 
{{要出典範囲|date=2012年7月|しかし、これは陰謀であった。若槻内閣は憲政会の内閣であり、穏健外交を政策に掲げていたため、1926年7月から始まった[[蒋介石]]の北伐に対してなんら対策を講じなかったのである。これが枢密院にとっては気に入らないことであった。そこで枢密院はこの事件を利用して若槻に揺さぶりをかけたものだと考えられる。よって}}次代の田中内閣が諮った同様の勅令案に対して枢密院は全く反対をしない。
 
但し、内閣と枢密院の見解が食い違った場合、内閣が辞職しなければならないという規定はなく、ここで総辞職をしたのは若槻の性格の弱さとも取れる。
 
===第2次若槻内閣 ===
[[ファイル:Reijiro Wakatsuki posing.jpg|thumb|left|200px|政治家時代の若槻]]
{{See also|第2次若槻内閣}}
 
次に若槻が内閣を組織するのは昭和6年([[1931年]]4)4月のことである。憲政会はそのとき[[立憲民政党]]となっていた。[[濱口内閣]]の失策により深刻な不景気を迎えていた国内では「満蒙([[満州]]と[[モンゴル]])は日本の生命線」とまで言われるようになっていたが、満州は[[蒋介石]]の[[北伐]]の完成により条約上の危機に瀕していた(中華民国蒋介石政府は1928年7月19日に[[日清通商航海条約]]の一方的破棄を宣言しており、日本政府はその無効を主張していた。さらに[[懲弁国賊条例]]<ref group="注釈">懲弁国賊条例は1915年のいわゆる[[対華21カ条要求]]交渉のさい中華民国が同交渉による2条約13公文を無効化するために6月22日に発出したものであるが、1929年には「土地盗売厳禁条例」「商租禁止令」など60の追加法令を発して、土地・家屋の商租禁止と従前に貸借している土地・家屋の回収をはかっていた。</ref>により[[間島]]や満州各地の朝鮮系を中心とした日本人居住者は立ち退きを強要されあるいは迫害されていた)。9月18日には[[柳条湖事件]]を契機とした[[満州事変]]が発生し、若槻の不拡大方針は国民、軍部への指導力を発揮することができず、終には内務大臣・[[安達謙蔵]]内相が「挙国一致」を訴えたため、閣僚にも見放された状態で12月には閣内不一致による総辞職となった。<!--
 
当時軍部では、汚職の続く政治家や失策の多い[[政党内閣]]に対し、強い危機感が生まれていた。そんななか「[[世界最終戦論]]」を唱える[[関東軍]]の[[石原莞爾]]、[[板垣征四郎]]、[[土肥原賢二]]らによって[[柳条湖]]付近で[[南満州鉄道]]の線路が爆破され、日本本国からの連絡を待たないまま彼らは[[長春]]を占領、土肥原を新市長につけてしまう。柳条湖事件は[[満州事変]]の発端となった。
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これにより「軍部が既成事実を積み上げれば政府の方針が覆る」という見解が軍部内で生まれ、後の軍部暴走へとつながり、日本は軍国時代へと突き進んでゆくこととなる。--><!--投稿者のエッセイであり、事実関係にあやしい記述があり、また投稿者の独自の歴史解釈を述べたものである。コメントアウト。-->
 
=== 重臣時代 ===
その後、若槻は首相経験者の立場で政治に参画し、[[重臣会議]]のメンバーにもなった。重臣グループでは[[岡田啓介]]とともに和平派・穏健派の中心人物であり、[[昭和天皇]]からの信任もきわめて厚かった。昭和10年代前半に次期[[内大臣府|内大臣]]という声があったが、民政党の色が強いということで実現しなかった。

昭和16年([[1941年]]には[[東條英機]]を次期首相として奏薦した重臣会議において[[宇垣一成]]を次期首相に推し論争を繰り広げている。戦争末期には[[重臣]]の一人として終戦工作に関与した。昭和19年([[1944年]]には、重臣会議に出席した[[東條英機]]首相を戦時経済遂行の面で激しく論難、東條の面目を失墜させ、東條内閣倒閣に重要な役割を果たした。昭和20年([[1945年]]に入ってからは[[鈴木貫太郎]]内閣]]の奏薦や[[ポツダム宣言]]受諾などに大きく関わった。

戦後、[[東京裁判]]の首席検察官を務めた[[ジョセフ・キーナン]]は昭和23年([[1948年]])10月に若槻、[[岡田啓介]]、[[宇垣一成]]、[[米内光政]]の四人を「戦前を代表する平和主義者」と称え、パーティーに招待している。
 
若槻は、それから約1年後の昭和24年([[1949年]])11月20日、[[静岡県]][[伊東市]]で死去した。
なお、昭和10年代前半に次期[[内大臣府|内大臣]]という声があったが、民政党の色が強いということで実現しなかった。
 
== 人物像 ==
*若槻は事務能力に秀でた政治家であった。矢田挿雲は「私生活の話のうちに、毎晩12時頃帰宅して[[熱燗]]を一本傾けながら百本以上の私信を処理し『我が妻よ、御身もし余を愛するならば、余に話しかけて余の仕事を妨ぐる勿れ』と箝口令を発布する由が出て居た。…非常に事務的な正覚坊と謂ひ得る」<ref>「若槻氏の癖」『中央公論』第四二巻第二号、昭和二年</ref>と書いている。
* 息子の[[若槻有格|有格]]は雑誌『民政』の記者に父について「今日は平生より可成り酔ってゐるやうだな、と思って時に何か緊急な用事……先づ政治上の用向なんぞが出来ますと、今まで酔って居たのが拭き取ってゞも了(しま)ったやうに、しらふに成って了って態度も言葉も又容貌も、丸で一滴も飲まない時に返って其用件を片付けます。然うしてその用が済むと又面上に酔が浮かんで陶然とした容子(ようす)になるのです」と語っている<ref>「三府楼主人「若槻全権の酒量大観」『民政』第三巻第十二号、昭和四年</ref>
*[[ロンドン海軍軍縮会議]]の首席全権になった際、「[[骸骨]]が[[大砲]]を引っ張っても仕方がない」と国力と調和した軍備を訴え、右翼から攻撃されている。
 
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*[http://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/wakatsukireijiro.php 国立国会図書館 憲政資料室 若槻礼次郎関係文書]
*[http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/219.html 若槻礼次郎 | 近代日本人の肖像]
*[http://www.saika.matsue.ed.jp/wakatuki/reimonoga5.htm 若槻禮二郎物語 - 松江市立雑賀小学校]
*[http://www.geocities.jp/bane2161/wakatukireijirou.htm 若槻礼次郎について]
*[http://www.c20.jp/p/wreijiro.html 若槻 礼次郎 / クリック 20世紀]
302 ⟶ 298行目:
| title = {{Flagicon|日本}} [[内閣総理大臣]]
| before = [[加藤高明]]<br/>[[濱口雄幸]]
| years = 第25代:1926年1月30日 - 1927年4月20日<br/>第28代 : 1931年4月14日 - 同12月13日
| after = [[田中義一]]<br/>[[犬養毅]]
}}
{{succession box
| title = {{Flagicon|日本}} [[内務大臣 (日本)|内務大臣]]
| titlenote = 1926年1月30日 - 同6月3日の間、内閣総理大臣兼任
| before = [[水野錬太郎]]
| years = 第41・42代:1924年6月11日 - 1926年<br/><small>第42代時は内閣総理大臣兼任</small>6月3日
| after = [[濱口雄幸]]
}}
314 ⟶ 311行目:
| title = {{Flagicon|日本}} [[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|大蔵大臣]]
| before = [[山本達雄 (政治家)|山本達雄]]<br/>[[高橋是清]]
| years = 第15代:1912年12月21日 - 1913年2月20日<br/>第17代:1914年4月16日 - 1915年8月10日
| after = [[高橋是清]]<br/>[[武富時敏]]
}}
320 ⟶ 317行目:
| title = {{Flagicon|日本}} [[拓務省|拓務大臣]]
| before = [[原脩次郎]]
| years = 第4代:1931年9月10日 - 同12月13日(兼任)
| after = [[秦豊助]]
}}
327 ⟶ 324行目:
| title = [[立憲民政党#歴代立憲民政党総裁一覧|立憲民政党総裁]]
| before = [[濱口雄幸]]
| years = 第2代 : 1931年4月12日 - 1934年11月1日
| after = [[町田忠治]]
}}
333 ⟶ 330行目:
| title = [[憲政会#歴代憲政会総裁一覧|憲政会総裁]]
| before = [[加藤高明]]
| years = 第2代 : 1926年1月29日 - 1927年6月1日
| after = [[立憲民政党]]へ
}}
339 ⟶ 336行目:
{{日本国歴代内閣総理大臣
|当代=[[第1次若槻内閣|25]]
|在任期間=1926年1月30日 - 1927年4月20日
|前代=[[加藤高明内閣|24]]
|前首相名=加藤高明
345 ⟶ 342行目:
|次首相名=田中義一
|2当代=[[第2次若槻内閣|28]]
|2在任期間=1931年4月14日 - 同12月13日
|2前代=[[濱口内閣|27]]
|2前首相名=濱口雄幸
355 ⟶ 352行目:
{{財務事務次官|大蔵次官}}
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:わかつき れいしろう}}
[[Category:日本の内閣総理大臣]]