「日本軍の階級」の版間の差分

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[[1944年]][[8月10日]]に技術部の兵技及び航技が統合され、それ以降は陸軍廃止まで階級制度についての改正はなかった。
{| class="wikitable"
|+陸軍軍人の階級(1944年8月10日 - 廃止)
!rowspan="3"|階級!!rowspan="2" colspan="2"|兵科!!colspan="12"|各部
|-
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明治初期の特に下士・卒・准卒の官名・職名制度は、職掌と結びついて複雑なものであった(戦後の海上警備隊以降は、制服隊員であれば、職掌の区別なく単一の階級体系に分類されているのと大いに異なる。)。その後、概ね科毎に整理等されていった。
 
=== 明治元年 - ===
文武官を分ける始めとして、慶応4年(明治元年)閏4月に、[[軍務官]]海軍局に、[[勅任官]]として、海軍将を置き、一等より三等に至る<ref>以下、明治元年から明治15年頃までの記載は主に、アジア歴史資料センター、レファレンスコードA04017113000による。</ref>。
 
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明治3年11月9日、海兵水卒等を水勇と改称した<ref>アジア歴史資料センター、レファレンスコードA07062089000、12頁。</ref>。
 
=== 明治4年8月 - ===
明治4年8月、大元帥、元帥、曹長、権曹長及び軍曹が追加で置かれた。この際、少将(官階4等)以上を勅任、少佐(官階7等)以上を奏任とし、大尉以下を判任とした。兵部省軍医寮に、一等・二等軍医正、一等・二等軍医、一等・二等軍医副、軍医試補(官階5等から11等まで)を、海軍部会計局に、会計監長、監督一等、監督二等、監督三等(官階5等から8等まで)を、また、病院総司(官階8等)を置いた。
 
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明治5年3月4日、水勇を海兵と改称した<ref>アジア歴史資料センター、レファレンスコードA07062089000、25頁。</ref>。
 
=== 明治5年8月 - ===
明治5年8月には、中士1等・2等、下士1等ないし3等(官階10等ないし14等)を設け、少尉・曹長・権曹長・軍曹・伍長に相当した。卒を5等に分類した。1等中士に、艦内教授役、掌砲上長、水夫上長、工夫上長(この3つを三上長という)等を置いた。
 
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明治6年5月には大元帥・元帥が再度廃止され、大将が官階1等とされた<ref>アジア歴史資料センター、レファレンスコードC09111782900。</ref>。明治6年5月8日に大尉が、12日に中少尉が、奏任とされた<ref>アジア歴史資料センター、レファレンスコードA07062089000、40頁。</ref>。
 
=== 明治6年6月 - ===
明治6年6月29日<ref>アジア歴史資料センター、レファレンスコードA07062089000、41頁。</ref>には、「少尉試補」は「少尉補」に改称された<ref>アジア歴史資料センター、レファレンスコードA07090067400 164頁。</ref>。准将校について、秘史局・軍務局に、秘書官、権秘書官、大中少秘書、秘書副(官階5等から10等まで)を置き、会計局の主計大監以下の官階を1等ずつ進め、5等から10等とした。また、機関司が廃止され、代わりに、主船寮が置かれ、機関大監以下の官が置かれ(機関士副は廃止)、かつ、官階を1等ずつ進め、5等から9等とした。また、軍医寮大医監以下の官階を1等ずつ進め、4等から10等とした。また、秘書官、主計官、軍医官、機関官を「乗艦ノ4文官」と称した。6月30日、大軍医・大主計を奏任とした(7等相当)<ref>アジア歴史資料センター、レファレンスコードA07062089000、41頁。</ref>。
 
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明治9年5月2日、軍楽隊の官等が改正された<ref>アジア歴史資料センター、レファレンスコードA07062089000、80頁。</ref>。
 
=== 明治9年8月 - ===
明治9年8月、官階10等を准士官として、少尉補をこれに分類した。軍医科に、軍医総監を置いて、3等官とした。秘書科に、大中少秘史(官階4等から6等まで)を置いた。主計科の主計大監を官階4等とし、新たに主計中監(官階5等)を置いた。機関科も主計科と同様の改正を行ったほか、機関士補を官階11等とした。この時に、主船寮や軍医寮等を廃止した。「水夫」は「水兵」に改称された<ref>アジア歴史資料センター、レファレンスコードA07090067400 169頁。</ref>。軍楽科を武官にした。明治9年12月18日、初の[[軍医総監]]の任官があった([[戸塚文海]])。1876年(明治9年)頃はまだ任官の要件などが確立されておらず、5月13日には、病重い[[華頂宮博経親王]]が20代で海軍少将(昇進としてではない)に任ぜられるなど柔軟な運用がなされていた。[[西南戦争]](明治10年)は、この頃である。
 
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{| class="wikitable"
|+明治9年8月 -
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!官階!!!!!!軍医科!!秘書科!!主計科!!機関科
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|}
 
=== 明治15年6月 - ===
明治15年6月、曹長・軍曹・伍長を廃止した。秘書科を廃止した。軍医部だけであった総監を、機関・主計部にも置いた。機関・軍医・主計部の機関士副・軍医副・主計副を廃止し、「〇〇補」を新設等して、これらをともに准士官(官階10等)とした。大中少医監を廃止し、軍医大中少監を置いた。機関・軍医・主計の3部を准将校と称し、武官とした<ref>アジア歴史資料センター、レファレンスコードA04017113000、12頁によると、この時転換したように読めるが、他方、物集高材によると、明治8年当時に既に大医監以下や、機関士副らを海軍武官の項に載せている([{{NDLDC|784424/58}} {{Cite book
|author = 物集高材
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明治17年7月海軍省丙第108号達にて、信号夫・船艙夫・帆縫夫・造綱夫・槙筎工は廃止され<ref>アジア歴史資料センター、レファレンスコードA07090067400 159頁。</ref>、信号夫・船艙夫・帆縫夫・造綱夫は水兵に、槙筎工は木工に統合された<ref>アジア歴史資料センター、レファレンスコードA07090067400 189頁。</ref>。明治18年1月31日制定の改正により、卒・准卒の職名に変更があった<ref>アジア歴史資料センター、レファレンスコードA07090067400 161頁。</ref>。
 
=== 明治19年7月 - ===
{| class="wikitable"
|+海軍武官官等表(勅任・奏任)(明治19年勅令52号)
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明治21年12月1日<ref>日付については、アジア歴史資料センター、レファレンスコードC06091341900、5頁も参照。</ref>、一等若水兵・一等若火夫を廃止して、二等若水兵・二等火夫を五等水兵・五等火夫と改めた。これは、元々、若水兵・若火夫が、新募兵で、練習が修了するに及び一等若水兵・一等火夫として艦船の定員に充てていたが、恩給令の服役年の計算に入らず、また、実際これを2分する必要がないことからの改正である。これに伴って、若木工も五等木工に、若鍛冶も五等鍛冶に改められた<ref>アジア歴史資料センター、レファレンスコードA07062099500。</ref>。
 
=== 明治22年4月 - ===
明治22年4月29日の改訂では、卒を5等級とした。
 
485行目:
その後、明治23年3月14日に工夫が廃止された<ref>明治23年勅令第25号。</ref>。明治23年12月27日には水雷夫が廃止され、信号兵が新設された<ref>明治23年勅令第293号。</ref>。
 
=== 明治22年7月 - ===
明治22年7月23日の明治22年勅令第98号では、下士について改訂が行われた。機技部の水雷工が廃止されたほか、主計部の筆記と主厨とが統合されて主帳とされ、主計部に准士官である上等主帳が置かれた。
{| class="wikitable"
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戦後の明治28年9月25日に、「火夫」が「機関兵」に、「看病夫」が「看護」に、「厨夫」が「主厨」(「主厨」はかつての主計部下士の官名であった。)に、それぞれ改められた<ref>明治28年勅令第132号。</ref>。
 
=== 明治29年4月1日 - ===
明治29年4月1日には士官以上・准士官・下士について比較的大きな改訂が行われた(明治29年勅令第39号)。機技部の士官以上の官が、機関、造船、造兵、[[水路部 (日本海軍)|水路]]に分割された。1896年(明治29年)4月、機技部の分割に伴い、造兵官に転じた者には、[[澤鑑之丞]]などがいる。
 
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|}
 
=== 明治30年12月1日 - ===
明治30年12月1日に、中佐・中尉を再設置し、少佐相当官として薬剤正・水路正を新設し、下士卒出身者を予定した「士官」として兵曹長・軍楽長・船匠長・機関兵曹長・看護長・筆記長が置かれたが、「特務士官」の区分はなく、兵曹長等は少尉等と同等の官即ち士官であった<ref>[{{NDLDC|845208/42}} {{Cite book
|author = 小栗孝三郎
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明治32年には、機関総監・軍医総監・主計総監・造船総監・造兵総監を、中少将相当官とした<ref>明治32年勅令第19号。</ref>。[[義和団の乱]](明治33年~34 - 34年)は、この頃である。
 
明治36年11月10日には、薬剤・水路の上長官について、大佐相当官を設け、また、官名を他の将校相当官と同様のものに改めた<ref>明治36年勅令第164号。</ref>。
 
明治36年12月5日の改訂では、鍛冶手が機関兵曹に<ref>明治36年勅令第269号。</ref>、鍛冶が機関兵に<ref>明治36年勅令第270号。</ref>、それぞれ統合された。また、海軍卒職名等級表中の機関兵・木工の順序が逆になった。[[日露戦争]](明治37年~38 - 38年)は、この頃である。
 
明治38年頃の松枝新一の解説によると、海兵団に初めて入団した者は一律に五等卒となるが、水兵・信号兵・機関兵・主厨は6か月、軍学生は10か月、木工は12か月の教程を終業して試験に及第すると、四等卒となる。その後、海上勤務4か月又は陸上勤務6か月以上続けて、進級試験に合格すると、四等卒よりも上級に進む。一等卒は海上勤務6か月又は陸上勤務8か月以上で、進級試験に合格すると、一等卒となれる<ref>[{{NDLDC|845122/65}} {{Cite book
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明治39年には、機関官の官名を将校に準じたものに改められた(なお「機関官」という呼称は存続した。)<ref>明治39年勅令第9号。</ref>。
 
明治43年6月1日、信号兵曹が兵曹に<ref>明治43年勅令第241号。</ref>、信号兵が水兵に<ref>明治43年勅令第242号。</ref>、それぞれ統合された。[[第一次世界大戦]](大正3年~7 - 7年)は、この頃である。
 
=== 大正4年12月15日 - ===
大正4年12月15日に、「機関官」を「機関将校」に改め、造機官が新設され、兵曹長等が新設の特務士官という区分に分類されることとなった<ref>大正4年勅令第216号</ref>。また、海軍武官官階表の官名に「海軍」が冠称されている。この、技術部門の士官を造船・造機・造兵・水路科に分類する制度は昭和17年まで長期にわたって続いた。
 
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=== 大正8年 - ===
大正8年には、将校相当官の官名が兵科や機関科に準じたものに改められた。また、「将校」・「機関将校」の区別を廃止し、両者を一括して「将校」と称し、その中で「兵科将校」・「機関科将校」に分けることとした。また、従来、「将官・佐官・尉官」を将校・機関将校のみに用いて、将校相当官を含んで総称する場合は「上長官・士官」の語を用いてきたのを改め、将校相当官についても、「将官・佐官・尉官」と呼称することとなり、また、従来の「軍医官」等の呼称を廃止した<ref>大正8年勅令第427号。</ref>。
 
764行目:
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=== 大正9年4月1日 - ===
大正9年4月1日に行われた改訂では、士官については変更はされなかった。但し、特務士官の官名を「○○特務○尉」として、従来特務士官の官名として使われていた「兵曹長」を准士官の官名として、従来下士の官名として使われていた「上等兵曹」や「〇〇師」などの官名を廃止した。卒を兵と改め、5等級から4等級に再編した等の大規模な改訂が行われた。これによって、下士官・兵ともに、従来のような複雑な階級名は一掃され、一律に「兵曹・兵」と科の名称を組み合わせた階級名に整理された。
 
803行目:
昭和5年1月10日、特務士官以下に、航空科が新設された<ref>昭和4年勅令第386号。</ref>。
 
昭和5年12月1日、特務士官以下の船匠科が機関科に統合された<ref>昭和5年勅令第227号・第228号。</ref>。[[第一次上海事変]](1932年(昭和7年)1月~3 - 3月)は、この頃である。
 
昭和9年4月1日には、特務士官以下に、航空機等の整備を担当する「整備科」が新設された。その際、海軍航空隊において航空兵器術を修め、特修兵となっていた兵曹・機関兵曹を、航空兵曹に転換させた。また、海軍航空隊において整備術を修め、特修兵となっていた特務中少尉・機関特務中少尉・兵曹・機関兵曹を、整備特務中尉以下に転換させた<ref>昭和9年勅令第66号。</ref>。航空科と整備科の区別としては、航空科は「飛行業務を本務とする者、航空兵器(飛行機搭載兵器)の地上整備を本務とする者及び飛行機の地上整備を本務とする者(整備科)の補助者」の3種類が、整備科は「飛行機その他の地上整備を本務とする者」が科別・兵種の区分として考えられていた<ref>アジア歴史資料センター、レファレンスコードA02030266200 20頁。</ref>。[[支那事変]](昭和12年~) - )勃発や、[[第二次上海事変]](1937年(昭和12年)8月~10 - 10月)は、この頃である。
 
昭和13年12月1日には、特務士官以下に「工作科」が新設された<ref>昭和13年勅令第143号。</ref>。