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'''ミュールベルクの戦い'''(ミュールベルクのたたかい、{{lang|de|Schlacht bei Mühlberg}})Mühlberg)は、[[1547年]][[4月24日]][[神聖ローマ皇帝]][[カール5世_(神聖ローマ皇帝)|カール5世]]軍が[[シュマルカルデン同盟]]の軍隊を破った戦いである。この戦いで[[プロテスタント]]軍の総大将[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]][[ヨハン・フリードリヒ (ザクセン選帝侯)|ヨハン・フリードリヒ]]は[[捕虜]]となり、[[シュマルカルデン戦争]]は皇帝側の勝利に終わった。<span class="cx-segment" data-segmentid="89"></span>
 
== 戦闘の経緯 ==
[[ファイル:Carlos_V_en_Mühlberg,_by_Titian,_from_Prado_in_Google_Earth.jpg|left|thumb|ミュールベルクの戦い語の皇帝カール5世、 ティッツィアーノ画]]
プロテスタント軍はザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ指揮下の約7,000の兵士からなっていたが、ミュールベルクの軍営で奇襲を受けた。プロテスタント軍は[[エルベ川]]北岸で[[マイセン]]からミュールベルクとトルガウを経由して[[ヴィッテンベルク]]へ向かう行軍の途中であった。4月24日の朝、ちょうどヴィッテンベルク方面へ向け更なる行軍を準備していた。皇帝軍の渡河が直接には考えにくかったこともあって、エルベ川方面の護りにはわずかな監視と[[大砲]]しかつけていなかった。ザクセン選帝侯は状況をコントロールしていると錯覚していた。というのは、彼は将校のほとんどと一緒にテントの中で福音派の[[ミサ]]に参加していたからである。
[[ファイル:1630_Schlacht_bei_Muehlberg_1547_anagoria.JPG|thumb|1547年のミュールベルクの戦いと捕虜となったザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ、1630年の絵画、ベルリンのドイツ歴史博物館所蔵 ]]
[[ファイル:Denkmal_Falkenberg_zur_Schlacht_bei_Mühlberg.JPG|thumb|ファルケンベルクの決定的な戦いの場所を示す記念碑]]
プロテスタント軍はザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ指揮下の約7,000の兵士からなっていたが、ミュールベルクの軍営で奇襲を受けた。プロテスタント軍は[[エルベ川]]北岸で[[マイセン]]からミュールベルクとトルガウを経由して[[ヴィッテンベルク]]へ向かう行軍の途中であった。4月24日の朝、ちょうどヴィッテンベルク方面へ向け更なる行軍を準備していた。皇帝軍の渡河が直接には考えにくかったこともあって、エルベ川方面の護りにはわずかな監視と[[大砲]]しかつけていなかった。ザクセン選帝侯は状況をコントロールしていると錯覚していた。というのは、彼は将校のほとんどと一緒にテントの中で福音派の[[ミサ礼拝]]に参加していたからである。<span class="cx-segment" data-segmentid="123"></span>
 
 その間にカール5世軍のスペイン人部隊が一部は泳いで、一部は浅瀬から広い河を横断していた。そして戦闘が始まった。わずかな[[選帝侯]]側の監視部隊は戦闘しながら陣営へ退却した。選帝侯ヨハン・フリードリヒは、小規模な自軍が[[カトリック連盟|カトリック軍]]の17,000の歩兵と10,000の[[騎兵]]に太刀打ちできるものではなかったので、退却を指示した。しかし、防備を固めたザクセン選帝侯の都市トルガウあるいはヴィッテンベルクに戻ることはもはやかなわなかった。むしろプロテスタント軍はその場で壊滅的な打撃を受けたのだった。<span class="cx-segment" data-segmentid="130"></span>
 
 ファルケンベルクの森でスペインと[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の[[軽騎兵]]は[[ナポリ王国|ナポリ]]の[[重騎兵]]と協力して選帝侯を包囲した。選帝侯は抵抗し勇敢に戦ったが、顔面に[[サーベル]]を受け負傷し、捕虜となり、まず[[フェルナンド・アルバレス・デ・トレド|アルバ公]]のもとへ、最後には皇帝の下へ引き立てられた。
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== 戦闘の結果 ==
* ミュールベルクでの敗北はシュマルカルデン同盟の終わりを意味していた。ヴィッテンベルク降伏条約が[[1547年]]5月19日にシュマルカルデン戦争を終結させた。
* ヨハン・フリードリヒは選帝侯位を失い、領土の大部分をカール5世と結んだザクセン公モーリッツに割譲された。[[エルネスティン家]]にはテューリンゲンの所領のみが残された。(ナウムブルク条約)
* エルネスティン家と[[アルベルティン家]]との間で最終的な貨幣の分離が行われた。ライプツィヒの主立った場所で1485年に取り決められた共通の貨幣鋳造は廃止された。
* いわゆる武装した[[アウクスブルク]]の帝国議会で劣勢のプロテスタント諸侯と諸身分は[[アウクスブルク仮信条協定]]を一方的に押しつけられることになった。
* [[ボヘミア王冠領|ボヘミア王]][[フェルディナント1世_(神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]は、ドイツのプロテスタント軍に対して兄カールに援軍を送っていたが、自分に向けられたボヘミアの諸身分の反乱鎮圧のために自由に動くことが可能になった。
* フェルディナントは自分に従わないオーバーラウジッツの諸都市を罰し、徴募期間終了後の1547年4月23日に諸都市の軍隊の解散を始め、そのため翌日彼らが戦闘に参加することはもうできなかった。
* 選帝侯軍によって占領されたドブラルク修道院領は再びニーダーラウジッツに併合された。<br />
 
== 参考文献 ==
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* Wieland Held: ''1547 – Die Schlacht bei Mühlberg/Elbe. Entscheidung auf dem Wege zum albertinischen Kurfürstentum Sachsen.'' Sax-Verlag, Beucha 1997, [[:de:Special:BookSources/3930076438|ISBN 3-930076-43-8]].
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