「歌会始」の版間の差分

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== 宮中歌会始 ==
===歴史===
起源は必ずしも明らかではないが、[[鎌倉時代|鎌倉]]中期には、『外記日記』に[[亀山天皇]]期の[[文永]]4年([[1267年]])1月15日に宮中で「内裏御会始」という歌会が行われたと記録されている。ただし、当時は[[作文始]]・[[御遊始]](管弦)と合わせた一連の行事として捉えられて'''御会始'''('''歌御会始''')と呼ばれており、1日のうちに3つを行うのが通例と考えられていた。また年始に限らず、天皇や[[治天の君]]の執政開始後に開催される場合もあった。ただし、御会始そのものは室町時代に中絶しており、『晴和歌御会作法故実』(著者不明であるが、[[霊元上皇]]書写の[[国立歴史民俗博物館]]所蔵本がある)という書物によれば、[[後円融天皇]]の[[永和 (日本)|永和]]年間の和歌御会始を模範として[[後柏原天皇]]が[[明応]]10年([[文亀]]元年/[[1501年]])正月の月次歌会を独立した儀式として執り行ったことが記されており、これが歌会始の直接的起源であると考えられている<ref>小川剛生「南北朝期の和歌御会始について」『和歌文学研究』78号(1999年6月)(所収:「北朝和歌御会について -「御会始」から「歌会始」へ-」(『二条良基研究』(笠間書院、2005年)第三篇第一章)</ref>。[[江戸時代]]からはほぼ毎年開催され、少しずつ変化をしながら現在に至る。
 
明治7年([[1874年]])、一般国民からの詠進も広く認められるようになり、明治15年([[1882年]])以降は、[[天皇]]の御製や一般の詠進歌が新聞や官報などで発表されるようになった。詠進歌の選考は[[宮内省]]に置かれた御歌所が行なった。このころ、歌の才を認められて重用される者も現れた。士族出身ながらも宮中女官となった[[平尾鉐]]は、18歳の時に歌の師である[[八田知紀]]の推薦で宮中に入り、[[昭憲皇太后|皇后美子]]より、歌子の名を賜った。女子教育者として一世を風靡した[[下田歌子]]である <ref>小田部雄次『天皇・皇室を知る事典』331項(東京堂出版、2007年)</ref>
 
[[1928年]](大正15年)には、歌会始の式次第が定められ、それまで「歌御会始」だったのが、「歌会始」に改称される。
 
昭和22年([[1947年]])より、現在のように皇族のみならず国民からも和歌を募集し、在野の著名な歌人(選者)に委嘱して選歌の選考がなされるようになった。それにともない、勅題も平易なものになった。これにより、上流社会の行事から一般の国民が参加できる文化行事へと変化を遂げた。現在では、テレビ放映も行なわれている。応募方法も郵便だけではなく、目の不自由な者の為に点字や、インターネットでの応募も可能である。