「ルーシ内戦 (1015年-1019年)」の版間の差分

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==過程==
===リューベチの戦い===
[[File:Battle of Liubech (1016). 1.jpeg|thumb|250px|リューベチの戦い([[ラジヴィウ年代記]])]]
1016年、ヤロスラフは3000人のノヴゴロド兵と、ヴァリャーグの傭兵隊を率いてキエフへ向かった。一方スヴャトポルクは[[ペチェネグ族]]の部隊を自陣に加え、これに備えた。両軍は[[リューベチ]]付近の[[ドニエプル川]]河畔で遭遇し、3ヶ月の間対峙した。対峙の間に晩秋となったが、両軍ともに渡河攻撃の機会を得なかった。この対峙は、最終的にはヤロスラフ側の勝利に終わった。合戦において、ペチェネグ部隊は湖に阻まれて、スヴャトポルクの本隊と連携をとることができず、救援に向かうことができなかった。勝利したヤロスラフはキエフ大公を名乗り、ノヴゴロドの人々に褒章を支払った
{{refnest|group="注"|この時にノブゴロドの人々に褒賞とともに与えた布告が、『[[ルースカヤ・プラウダ (キエフ大公国)|ルースカヤ・プラウダ]]』の原型となったという説がある。詳しくは[[ルースカヤ・プラウダ (キエフ大公国)#成立に関する諸説]]を参照されたし。}}。スヴャトポルクはポーランドへ逃走した。
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===アリタ川の戦い===
[[File:Battle of the Alta River (1019).jpeg|thumb|250px|アリタ川の戦い([[ラジヴィウ年代記]])]]
同じく1019年、スヴャトポルクとヤロスラフは[[イリティツャ川|アリタ川]]で戦った<ref name="ЭСБЕ/Алта">[[:ru:s:ЭСБЕ/Алта|Алта]] // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона ([[ブロックハウス・エフロン百科事典]]): в 86 т. (82 т. и 4 доп.). — СПб., 1890—1907.</ref>。年代記は、この戦闘の行われた場所や詳細を記しておらず、かつて2人の兄弟の[[ボリス・ウラジミロヴィチ (ロストフ公)|ボリス]]が殺害された地であることを述べている。スヴャトポルクは[[ブレスト (ベラルーシ)|ベレスチエ]]を越えてチェコへ逃走する途上で病死した。