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義鎮が当主になると加判衆となり、[[筑前国]]の方分となりる。さらに大友晴英([[大内義長]])が大内氏当主として迎えられる頃には加判衆筆頭となっている。 [[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])の[[小原鑑元]]の反乱や翌3年([[1557年]])の[[秋月文種]]の討伐にも参加し、秋月攻めでは大功をたてたとされる。その後、[[筑後国]]の方分として現地に留まる。
 
永禄4年(1561年)[[毛利氏]]と門司城[[戦い#第四次門司城の戦い|第四次門司城の戦い]]で、補給線を断たれて撤退するところを[[毛利氏]]の[[乃美宗勝]]らの待ち伏せに遭って重傷を負い、11月9日にその傷がもとで死亡した。家督は弟の鑑重が継いだ。
 
{{DEFAULTSORT:たきた あきなり}}