「志賀親守」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
{{基礎情報 武士
'''志賀 親守'''(しが ちかもり、生没年不詳<!--[[永正]]8年([[1511年]]) - [[文禄]]元年([[1592年]])-->)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[大友氏]]の家臣。[[志賀親益]]の子。[[志賀親度]](親慶、親教)の父。親安。道輝。兵部少輔。民部少輔。安房守。
| 氏名 = 志賀親守
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]]
| 生誕 = 不明
| 死没 = 不明
| 改名 = 親守→道輝(法名)
| 別名 = 親安
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[兵部省|兵部少輔]]、[[民部省|民部少輔]]、[[安房国|安房]][[国司|守]]
| 幕府 =
| 主君 = [[大友義鑑]]→[[大友義鎮|義鎮(宗麟)]]→[[大友義統|義統]]
| 藩 =
| 氏族 = [[志賀氏]]
| 父母 = 父:[[志賀親益]]
| 兄弟 =
| 妻 =
| 子 = [[志賀親度|親度]]
| 特記事項 =
}}
 
'''志賀 親守'''(しが ちかもり、生没年不詳<!--[[永正]]8年([[1511年]]) - [[文禄]]元年([[1592年]])-->)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[豊後国]]の[[大友氏]]の家臣。[[志賀親益]]の子。[[志賀親度]](親慶、親教)の父。親安。道輝。兵部少輔。民部少輔。安房守
 
[[志賀氏]]は大友三家の一つ。北志賀家は[[南郡衆]]の筆頭である。
 
[[天文 (元号)|天文]]19年([[1550年]])、[[二階崩れの変]]の後、[[大友義鎮|大友義鎮(宗麟]]の家督相続に尽力した。天文21年([[1552年]])に子[[志賀親度|親度]]に家督を譲って早々に隠居したが、実際は[[加判衆]]のひとり一人として宗麟やその子[[大友義統|義統]]の側近として活躍したという。その後、親度が義統と対立し失脚すると、親度ともども共々殺害されそうになるが、宗麟の仲介があって助かったという。[[天正]]6年([[1578年]])の[[耳川の戦い]]では[[肥後国]]に出陣したが、この戦に反対していたため軍勢を積極的に動かそうとしなかった。
 
天正14年([[1586年]])、[[薩摩国]]の[[島津氏]]が豊後に侵攻([[豊薩合戦]])すると、宗麟と共に[[丹生島城]]に立て籠もって抗戦するも、実際は[[入田義実]]を通して島津氏と内通していたとされ、子の親度は[[入田氏]]や南志賀家と共に島津氏に味方し、孫の[[志賀親次|親次]]が守る[[岡城 (豊後国)|岡城]]を攻撃している。その後、島津氏が敗北すると子の親度は処罰されたが、表立って反抗しなかった親守は咎められず、孫の親次の後見役となった。宗麟の葬儀にも参じ、その後も義統の側近として仕え、[[文禄・慶長の役]]の際は、豊後国において留守を守った。没年は不明
 
なお、大友義鎮が嫡男・義統に天正12~13年([[1584年]]~[[1585年]])頃に送ったと推定される書状の中で、親守を宇目村という場所に派遣したが、折を見て持ち場を離れてしまう。原因は女色家であるためで、大友家存亡の時にこれでは困る、と記されたものが存在する。
 
{{DEFAULTSORT:しかちかもり}}
{{japanese-history-stub}}
 
[[Category:志賀氏|ちかもり]]
[[category:戦国武将]]
[[category:豊後国の人物]]
<!--
[[category:生没年不詳]]
嵐世記の武将ファイルの生没年はあくまでゲームの設定です。
[[Category:1511年生]]
[[Category:1592年没]]
-->