「アメリカ極東陸軍」の版間の差分

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日米関係が悪化して軍事的緊張が高まる中、[[1941年]]前半から、極東方面の連合国軍部隊を指揮する高等司令部の設置が検討され始めた。同年6月頃には検討が本格化し、日本の[[仏印進駐#南部仏印進駐|南部仏印進駐]]の動きに応じて、[[7月26日]]にアメリカ極東陸軍の創設として実現した<ref>Morton, pp.17-18</ref>。その司令官には、1937年に退役していたダグラス・マッカーサー(当時はフィリピン陸軍[[元帥]])が、少将として現役復帰して着任することになった。人選の背景には、マッカーサー自身の積極的働きかけと、彼のフィリピンなどでの豊富な経験への期待があった。なお、マッカーサーの階級は、翌27日に[[中将]]、太平洋戦争開戦後は[[大将]]へと進んでいる。
 
米極東陸軍司令部はマニラに設置された。駐留アメリカ軍と軍事顧問から集められた司令部の職員は、40歳代後半が中心の若い構成となった。その指揮下には、既存のアメリカ陸軍フィリピン部のほか、戦時態勢に移行したフィリピン陸軍部隊も収まることになった。これにより、初めてフィリピン駐留アメリカ軍とフィリピン陸軍の指揮系統が統一された<ref>Morton, p.18</ref>。以後、米極東陸軍司令部が作戦計画・軍備計画立案と指揮の中心となり、フィリピン部司令部の機能はフィリピン陸軍の教育管理など後方部門に限定された。10月にはフィリピン部司令官もマッカーサーが兼任するようになった<ref name="Morton23">Morton, p.23. </ref>{{Refnest|group="注"|ただし、開戦後の1941年12月30日には、フィリピン部司令官にアラン・マクブライド[[准将]]が就任して、兼任体制ではなくなっている</ref name="Morton23" />。}}
 
米極東陸軍が編成されると同時に、部隊の増強が急務となった。7月末時点で22,500人(うちフィリピン・スカウト12,000人)の兵力を有した駐留アメリカ陸軍については、中核部隊である[[{{仮リンク|フィリピン師団]]|en|Philippine Division}}を近代的な3単位師団に改編するとともに、[[戦車]]や[[対戦車砲]]、[[対空砲]]、新型航空機などの追加が進められた。また、現役復帰前からマッカーサーが要望していたフィリピン陸軍の[[動員]]も、9月1日に実行に移された。12月15日編成完了を目途に、10個管区でそれぞれ1個師団の動員が進められた。アメリカ陸軍の正規部隊と異なってアメリカ議会の統制が及ばないため、部隊規模の拡張について米極東陸軍司令部の裁量の幅が大きく、迅速な決定が可能だった。しかし、[[小銃]]以外の装備が大幅に不足しているなどの問題があった。この間、9月にはアメリカ陸軍上層部からは1個[[州兵]]師団の増援も提案されたが、マッカーサーはこれを断り、代わりにフィリピン師団改編用の補充部隊や各種新装備の補給を急ぐよう求めている<ref>Morton, p.32</ref>。
 
===フィリピン防衛戦===
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結局のところ、米極東陸軍は、十分な戦力整備が終わらないままで1941年12月8日の太平洋戦争勃発を迎えた。例えば、フィリピン師団改編用の第34歩兵連隊は、まさに12月8日にフィリピンへ向けて出港予定で準備中であった<ref name="morton3435">Morton, pp.34-35</ref>。フィリピン陸軍の各師団の動員状態は2/3が進行した程度で、動員済みの部隊も装備や訓練は不完全だった。駐留アメリカ陸軍の兵力は31,000人(うちフィリピン・スカウト12,000人)、フィリピン陸軍の兵力は約10万人であった<ref>Morton, p.50</ref>。(詳細は[[#戦力の実態]]にて後述)
 
それでも、マッカーサーは事態を楽観視していた。従来の[[マニラ湾]]・[[バターン半島]]への籠城作戦を変更し、フィリピン全島の防衛と航空戦力による積極作戦を指示した<ref>{{Refnest|group="注"|もともとの[[オレンジ計画|オレンジ3号計画]] (WPO-3) では、マニラ湾に防備を集中して遅滞戦闘、さらにバターン半島で6ヶ月間の籠城戦を行って救援を待つ計画だった。ただし、現実には6ヶ月間での救援は不可能と予想され、フィリピン守備隊は最終的に敗北することが暗黙の想定だった。新しい[[レインボー・プラン|レインボー5号計画]] (RAINBOW 5) でも同様の守勢作戦が当初案であったが、マッカーサーの強い反対で計画が変更された。</ref>}}。11月4日にはマッカーサーの防衛計画に基づき、北部ルソン部隊、南部ルソン部隊、ビサヤ・ミンダナオ部隊などの作戦区分が正式発令された。この区分に沿って米極東陸軍は[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|フィリピンの戦い]]を戦ったが、兵力や物資の分散を招いたこともあって敗北を喫することになった。
 
[[ファイル:Wainwright and MacArthur at Philippine.jpg|thumb|180px|[[ジョナサン・ウェインライト]](向かって左)と[[ダグラス・マッカーサー]](右)。(1941年10月1日)]]
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==戦力の実態==
[[ファイル:Marines teach Filipino cadets.jpg|thumb|250px|[[ブローニングM1917重機関銃]]の操作をフィリピン陸軍航空軍の[[士官候補生]]に教える[[アメリカ海兵隊]]員。]]
 
アメリカ極東陸軍は、額面上は11個師団という大兵力を有していたが、その実戦力は必ずしも有力とは言い難かった。
 
アメリカ陸軍の正規部隊は、フィリピン・スカウトも含めて練度は悪くなかったものの、対戦車砲や輸送車両が不足がちだった。中核部隊となるフィリピン師団は、アメリカ本国編成の歩兵連隊1個を既存のフィリピン・スカウト連隊のうち1個と入れ替えて、アメリカ人主体の[[戦闘団|連隊戦闘団]]2個を編成できるようにする計画だったが、実現しないままだった<ref name="morton3435" />。
 
フィリピン陸軍に至っては、開戦時にもいまだ人員すら揃わない状態だった。各師団は3個歩兵連隊と2個砲兵大隊、対戦車砲大隊などから構成されるはずだったが、訓練まで終えたのは各1個歩兵連隊程度に過ぎなかった。例えば、11月18日に誕生した第31師団の場合、隷下3個歩兵連隊うち第1陣である第31歩兵連隊は9月1日に動員済みだったものの、2番目の第32歩兵連隊(11月1日動員)は師団戦列に合流したのが12月6日、3番目の第33歩兵連隊に至っては11月25日にようやく動員着手という具合であった。最初の砲兵大隊である第31砲兵大隊の動員着手は開戦後の12月12日で、2個の砲兵大隊が揃ったのはバターン半島での籠城戦の最中だった。対戦車砲大隊は編成されないままに終わった<ref name="morton2830">Morton, pp.28-30</ref>。
 
兵器や[[弾薬]]の不足も著しかった。これもフィリピン陸軍第31師団の例で見ると、[[分隊支援火器]]のはずの[[ブローニングM1918自動小銃]]は1個[[中隊]]に1丁、師団砲兵用の75mm[[野砲]]は照準器が無い欠けた状態の8門だけが配備された。小銃と[[重機関銃]]と小銃はそれなりに数が揃っていたが、旧式の[[ブローニングM1917重機関銃]](各機関銃中隊に8丁)と[[スプリングフィールドM1903小銃]]だった。弾薬不足は訓練にも影響し、9月に動員された第31歩兵連隊が最初の実弾射撃訓練をしたのは11月24日という有様だったが、実弾射撃経験無しで実戦投入された他の多くのフィリピン陸軍部隊よりは恵まれていたという<ref name="morton2830" />。
 
また、フィリピン陸軍の沿岸警備部隊はイギリス製の魚雷艇36隻の配備を計画していたが、第二次世界大戦の勃発でイギリスからの輸入は2隻のみしか実現しなかった。代わって現地生産が試みられたが、1隻完成しただけだった<ref>Morton, p.13</ref>。
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*アメリカ極東陸軍司令部 - 司令官:[[ダグラス・マッカーサー]]中将
*アメリカ陸軍フィリピン部
**[[{{仮リンク|フィリピン師団]]|en|Philippine Division}} - 第31・第45・第57歩兵連隊、第23・第24野戦砲兵連隊(計3個[[大隊]])基幹。第31歩兵連隊以外はフィリピン・スカウト部隊である。
**第43歩兵連隊 (PS) - 編成途上で1個大隊のみ。
**第26騎兵連隊 (PS) - [[騎兵|乗馬騎兵]]
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==脚注==
===注釈===
<references group="注" />
 
===出典===
{{Reflist|2}}
 
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{{DEFAULTSORT:あめりかきよくとうりくくん}}
 
[[Category:アメリカ合衆国陸軍の編成|きよくとうりくくん]]
[[Category:フィリピンの軍事]]
[[Category:太平洋戦争]]